サプライズパーティーは存在しない37564

普段周囲から激しい暴力を受けている私がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗だった……。目を凝らしても何も見えない。すると暗闇からかすかに歌声が聞こえ始めた。ハッピバースデートゥ……。
このような光景を想像できた。思考できた。だからサプライズパーティーは想像可能である。思考可能である。思考可能なものは存在可能である。つまりサプライズパーティーは現実に存在する可能性があると言わざるを得ない。あらざるを得ない、のではないか。だとすれば、サプライズパーティーは思考不可能、とはどういうことなのか。
「普段周囲から激しい暴力を受けている私がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗だった……。目を凝らしても何も見えない。すると暗闇からかすかに歌声が聞こえ始めた。ハッピバースデートゥ……。」つまり、これは、サプライズパーティーを想像した情景だとは言えない、これはサプライズパーティーの想像だとは言えない、のではないか、ということです。
普段周囲から激しい精神的肉体的暴力を受けているのなら、トイレから帰ってくると部屋が真っ暗なら、恐ろしくなるだけでしょう。部屋が明るくなり皆が「ハッピバースデートゥユー」と歌うのを目にしても、恐ろしい気持ちは去らないでしょう。このことは以前書きました。普段周囲から激しい暴力を受けているひとは、トイレから帰ってくると部屋が真っ暗でも、皆が笑顔で「ハッピバースデートゥユー」と歌うのを目にしても、みんなから感謝の言葉付きでプレゼントを受け取っても、部屋の机の上にささやかでありながらも本人の好物でありかつ食後から10年後まで短期長期の体調と健康を見据えていることを明確に意識させられる繊細で押し付けがましくない料理が用意されていたとしても、催しの間中皆がにこやかに話しかけてくれても、それでも恐怖は去らないでしょう。つまり、上の想像は、パーティーの本質、それがなくなればもはやパーティーとは言えなくなるパーティーの本質的要素が、完全に欠落しているのす。パーティー、しかも、主賓がひとり(ひと組)のみ存在するパーティーは、主賓が祝われなければ、主賓の能動的受動的精神状況が祝われるに値する条件を備えていなければ、パーティーとは言えません。本人が周囲に祝われる条件・本人が周囲から祝われることを受け止めることができる条件、それらが備わって初めてパーティー、ここでは、祝われる対象が存在するパーティー、と言えるのです。そして、祝われるにふさわしい存在が、トイレから帰ってくると部屋が真っ暗だった……、ということが起きても、どのような意味でのサプライズもありません。坂道に沿って野球のボールが転がっていくように、アローング(……。)なのです。パーティーはアローングでしかありえない。サプライズとパーティーの組み合わせは、まさに矛盾なのです。もし、どう考えてもサプライズパーティは想像できるしか思えないし現に私はいま想像できた、と思うようなことがある場合、それはサプライズパーティーではなく、ただの「パーティー」の想像でしかないのです。