サプライズパーティーは存在しない5

普段周囲から激しい暴力を受けている人がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗で……、で始まる誕生日パーティーは、いくらなさそうなことだとはいえ、それを体験してしまえばあるとしか言えないのであり(だって現に存在したのだから)、それは、野球のボールを目の前で手から離したとき野球のボールが落下せず空中に静止するといったことが起こることが可能なのと同じことだ、という考え方に疑問がある、というわけです。
ところで私は「思考可能なことは実現可能」(さらにすすめば「存在するものは合理的」)という考え方を、いまのところ、間違っているとは思っていません。それはおかしいのではないか? 思考可能なことは実現可能なら、サプライズパーティーも実在可能なのではないか? となるかもしれません。しかしそうはなりません。サプライズパーティーは想定すらできない、思考不可能なものなのです。周囲から激しい暴力を受けている人がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗で……という誕生日パーティーは確かになかなか催されないかもしれない。しかし、それを考えることぐらい誰にでもいつでも可能だ、と思いそうになりますが、そうではありません。激しい暴力を受けている人がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗で……というサプライズ誕生日パーティーは、考えることすら不可能なのです。それが以前にも書きましたように、「文脈」ということの意味です。