『四o川のうた』ES 1200

大変おもしろく、楽しめました。忍耐だけが続く時間が過ぎた解放感を映画の感動に変換する作業が上映後無意識下で行われることを警戒していたのですが(無意識下で行われるのなら警戒しても無駄ですが)、見ている途中から、ググッと興奮する瞬間が何度もありました。
巨大工場の中に明るい外光が差すシーンは『鉄o西区』を思い出します。インタビューの間に挟まれるカメラ目線の人々の表情のなんともいえない中途半端な感じがたまりません。噴き出しそうになります。インタビュー中に聞こえる工場の機械の音のような外を走る車の音のような音の鮮やかさ、薄汚れた窓の外に置かれている植木鉢のリアルさ、など、画面がいちいち決まっていて、どこを見ても何を聞いても素晴らしい。映画はほとんどの時間が固定されたカメラで撮られたインタビューなのですが、どのインタビューも、その内容が最初受けた印象からどんどん変わっていくので全く飽きません。これで伝わるのかというと全然伝わらないと思います。
『グ・ト』と『四o川』だと、『四o川』のほうがかなりわかりやすいと思います。見てはっきりとわかる綺麗さだし、それをじっくりと見せ付けてくれるのだから、わからない、という感想になることはあまりないように思います。『四o川』にくらべ『グ・ト』は全然タメがないというか、全部スーッスーッと流れていくというか、どうだ!という画面が無いのです。無いことはなくてラストをはじめいろいろとどうだという画面はありますが、なんでしょうか。やはりはっきりとはしていないといいますか、わかりやすくないように思えます。これでどうやって泣けばいいのか全然わからない。わからないのが非常につらい、よく見る感想・以前から読んでいる日記の感想は「とにかく泣ける!」、困ったなぁ、そういう気持ちです。



(以下は映画とは関係のない話です。)さて、なぜ私は感動できなかったらおちこみ、感動できたら落ち込まないのか。感動できたからこそ落ち込むということがあっても良いのではないか。映画の偉い人がほめる映画を見て感動できたから落ち込まずに済む、ということ以外の、感動自体の楽しさがあるということなのか。感動そのものに、嬉しがれる感動、嬉しがれない感動というものが考えられるか、というと、考えられない。感動というのはそれ自体うれしがっているということが含まれている。嬉しがれない感動というのはない。感動の後で、その感動を固定化して、感動してしまったが良いか悪いかと判断することはできる。悪いと判断できれば落ち込むことも可能になる。
感動できない問題、説明してもわからない問題については、以前、こういうのは料理と同じで、求めれば求めるほど、進んでいけば進んでいくほど、繊細でわずかな違いが問題となっていくのだから、甘い・辛い・油っぽいぐらいの味覚しかない素人が高級料理に感動するどころか全くおいしくないつまりまずいと思えてしまうのと同じように、小説でも映画でも演劇でもそれをよく知っている人がほめるものをあまり知らない人が良いと思えるわけではない、と言われた事があるのですが、『グ・ト』のほめられ方(大工道具をそろえるシーンがワンカット!!(文5月号青山さん))を見ていると、そういうこともあるような気はします。自分の素朴な実感を肯定しすぎでしょうか。