誘い方、共感、自分の楽しみ

何を見ても楽しめない、という病的な心の状態だということになるのかもしれません。待望の『グoラン・トリノ』を見てもピンとこないし、今日は中野で℃o-uteのコンサートを見たのですが、楽しめたものの、寒々しい気持ちが去りませんでした。中野で行われるコンサートを昼だけ見て帰ったのは初めてのことです。いつもなら苦労してチケットを何とかそろえ全公演見尽くすところなのに、当日券(一般席ファミリー席)すら出ていたにもかかわらず昼が終わるとすぐに帰り19時前に寝ました。休みなく仕事をやった反動がここに来て出てきているのでしょうか。だとすれば家で寝ていると事態は悪化するので無理矢理でも以前楽しめたことをやってみるべきなのでしょうか。
℃o-uteのコンサートは、最終的な判断が、楽しい・楽しくない、にしかないため、楽しくないことが何か重大な問題を引き起こすわけではなく、今日はあまり楽しめなかった、だけのことに過ぎないのですが(私が楽しめない心の状態だったということであって、℃o-uteのコンサートが楽しむに値しないものであったわけではないです)、『グoラン・トリノ』はより深刻です。単なる心の状態に帰すことのできないもっと本質的(すみません)な理由があるとも思えます。本質的とも深刻とも考える必要はなく、映画も楽しいか楽しくないかだけで判断すればいいと思うのですが、そうするためには、映画は様々な要素(意義)に関係しすぎています。一日のうちにかかわっている時間としては圧倒的にハoロプロのほうが長いのですが、映画のほうが生活にとってややこしい関係になっているのは恥ずかしい話で、もしかすると「映画がわからない」問題(映画を「わからない(楽しめない)」ことが問題となってしまう問題)の原因のひとつはこういうところにあるのかもしれません。
様々な人が様々なことに感動したり感動しなかったりするのだから、他人が感動しているからといって私が感動しない可能性はある。多くの他人が感動していても、さらに私も感動したいと思っていても、私は感動できない場合がある。これはわかる。多くの他人が感動したと言い、感動した理由として挙げている箇所を読んでも、なぜそれが感動につながるのか、指摘はその通りかもしれないが、それが「見るべき」となるのはなぜか、それが全くわからない(もちろんこの「わからない」は、低く評価するもしくは批判することを意味する「わからない」ではなく、文字通りの「わからない」です)ことも、よくあることではある。自分が楽しめること、しなければならないこと(お金を得ること、生活のことを考えること)をすればいいのであって、かけてきた時間がそれなりにあるとはいえ、楽しめないことについて長々考える必要はないのではないか、とも思えます。
ただ、無視できない理由を、いつもの問題に絡めて挙げるとすれば、感動を語るとき、「見るべき」と勧めるとき、まだ感動できない相手やまだ見るべきと思えない相手には全く届かないような言葉でしか書かれていないように思えるが、そういう判断は妥当なのか、ということです。そんなことを言ったら他人に届く言葉なんてない、のかもしれません。これこそが届く言葉であって、届かないと思うほうが言葉を拒否しているだけ、自分の好み以外を受け付けないだけ、なのかもしれません。あるいは届くということを限定しすぎているのかもしれません。そもそも「届く言葉」を書く必要はないのかもしれません。そういう意味ではわけもわからずEWをほめる人を生んでしまったのかもしれないが、とにかく人を映画館に運ばせたという意味では、「(私は)感動した」という感想だけを言うよりは、映画館のためにはなっただろうし、アイドルの歌や踊りを「アート、芸術として語りたい」と言うことにも肯定的な意義はあるのかもしれません。
(途中)