内観の対象知覚的解釈に対する批判と独o我論

『入門』P140 抜き書きメモ
自分の身体感覚や意図や願望は、外界の対象に対する知覚と同じように扱うことはできない。外界の対象は主体にそのまま現れるわけではなく、誤認の可能性があるが、身体感覚や意図や願望は、主体にあらわれるがままにあり、誤認の可能性が無い。
りんごは別の人が見たり誰も見ないことが可能だから知覚する主体について語ることには意味がある。しかし、ある人の感じる痛みは、別の人がその痛みを感じたり、誰もその痛みを感じなかったりすることが不可能であり、だからその主体について語ることも意味が無い。痛みにおいては、主体が対象を知覚するという図式が成り立っていない。私は他人の痛みを感じない、ということは、観測される事実ではなく、文法的事実である。(Aさんが痛みを感じるときなぜか同時に私もAさんが痛みを感じている箇所と自分の身体の同箇所に痛みを感じるという現象が観測され続けたとしても、私の感じる痛みは、Aさんの感じる痛み、ではなく、あくまで私が感じる痛みでしかない。人は他人の痛みを感じない、ということは経験的事実ではなく、文法的真理である。)
独o我論者が「真に見られているのはこれだけである」と言ったとしても、「これ」は外界の対象を意味するのではなく(外界の対象を意味するのなら誰にでも見えている(見ると言うことに意味がある)ことになり独o我論者が自分にだけ見えているものだと言うことはできない)身体感覚であるから、見ている者だけが見ているということは、痛みと同様、文法的事実であり、主体を強調することには意味が無い。独o我論者が言う「これ」はそういった一般的事実ではないが、文法的事実に読み換えられるしかない。だから独o我論は語りえない。