検証から文法への移行と志向性

検証から文法への移行における志向性の関係の仕方がいまいちよくわからない。
言語を現実と比較する(写像・検証)という考えから、文法への移行において、最初のとっかかりとして志向性があった、ということですが、文法という考え方それ自体で写像・検証から移行できるように読めるので、志向性の入る余地がなくなる。今日はそのあたりを読み返していました。
「りんごは赤い」「りんごは青い」を現実と比較して真偽が決まる。と思ってしまいそうになるが、「りんごは騒がしい」は無意味であり、りんごは赤ければ青くないことは、現実と比較する前から文法によって決まっている( http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20080414/p3 )。文法は経験を可能にする先験的なものである。命題を確定しなければ、現実の像になることができたり現実と比較(検証)できはしない。命題が現実と比較されることによって現実にたどり着くのではなく、命題は文法による説明で別の命題と関係付けられる。ここに志向性がどう絡むのか。( http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20080429/p2