「語れず示される」ことを語られても理解できることについて

『ウ入門』より。
「「りんご」はりんごを意味する。」
上の文では、括弧に入っていないほうの「りんご」が既にこの文章が言おうとしていることをしてしまっており、この文章では言おうとすることが言えていない。言語が世界の像であることは、言語表現から直接見て取られる(語れず示される)しかない。
言えていないのに、言おうとすることは理解できている。これはどういうことか?なぜ理解できている(気がする)のか。
理解できるということは、ある部分では語れている、ある種のこと、ある種の質は、語れている、ということではないか? 語れるということと理解できるということは結びつかないということか。語れない、とは、どういう意味で語れないのか。
この問題も、内容は違いますが、『私今神』のテーマのひとつだったように思いますが、『私今神』では、内容がすりかわっても構造が同じだから学べる、みたいな話だったような記憶があるのですが、どうだったか……。