『ウ入門』前期部分より 「語り得ぬもの1」のうちのふたつめについて

言語は世界の写像だが、言語が世界を写像しているということ自体は言語で表現できない。
「「りんご」はりんごを意味する。」
上の文ではそれが表現できているような気になるが、括弧に入っていないほうの「りんご」が既にこの文章が言おうとしていることをしてしまっており、この文章では言おうとすることが言えていない。言語が世界の像であることは、言語表現から直接見て取られる(語れず示される)しかない。
ここまではわかる。問題はもうひとつのほう。
ウは写像形式以外にも、論理も語り得ない、と言っている。論理が語りえないとはどういうことか。
「AならばBでありかつAのときB」(「(A⊃B)∧A⊃B」)(「りんごが腐っているときりんごは食べられないならりんごが腐っているとするとりんごは食べられない。」)
上の文は事実について語ってはいない。世界をいくら観察しても、上のことがわかるようになったりわかるようにならなかったりしない。上の文は事実に関係なく常に真であり、つまり世界の形式を示している。

  1. まず、たとえば「りんご」という言葉はりんごの像だが、それに対し、「ならば」を意味する「⊃」や「かつ」を意味する「∧」(論理定項)は何かの像ではない。「論理定項は像ではない」。何か抽象的対象の像なような気がするが、そうではない。
  2. 「AならばBでありかつAのときB」のようなものは、あえて語ることではなく、示されるもの。(語れない)

「りんごが腐っている」は像だ(用語をルーズにつかって申し訳ありません……。)。これは事実を語っている文である。それはわかる。この文と、「りんごが腐っているときりんごは食べられないならりんごが腐っているとするとりんごは食べられない。」はどう違うのか。違うのはわかるが、それほど違うとも思えない。後者は事実を語っていない、というのもわかる。世界の形式を示している、というのもなんとなくわかる。でもそれが語りえないとはどういうことか。語れているのではないか。論理定項は像ではない、ということも、パズル的にはわかるような気がするが、いまいちピンと来ない。「像ではなく操作だ」(野o矢さん『読む』)といっても言い方が違うだけで、操作という名前が付いた像の様な気がする、という考えは何も読めていない・わかっていない考えだとは思うのですが……。これらについて、「「りんご」はりんごを意味する。」(とは言えない、という説明)のように、わかりやすく理解できるような道筋は無いだろうか。