自分で考えた(不勉強に居直った)自然淘汰(自然選択説)妄想

物は腐ると非常に嫌な臭いを発する。なぜ非常に嫌な臭いを発するかというと、腐った物を好んで食べる動物は死んでしまい、腐った物を嫌う動物だけが生き残っているからではないか、と考えることができる。ということは、腐った物を食べてダメージを受ける動物にとってだけ腐った物は臭い匂いを発するのであり、腐ったものがそれ自体臭いわけではない、ということになりそうだが、「におい」という特徴がそもそも物が腐っているかどうかが重要な生き物特有の感覚だろうから、腐ったものを臭いか臭くないかで判断すること自体が、物が腐っているかどうかが重要な意味を持つ生き物にだけ意味を持つ価値なのかもしれない。


そこで以下のようなことを妄想しました。


いま生き残っている生き物は、死ななかった生き物で、環境に適応できず死んでしまった生き物もたくさんいる。いま生き残っている生き物は、環境に適応していたから生き残っている。たとえば、腐ったものを嫌って食べないような特徴があったから、腐ったものを食べずに生き残ることができた。腐ったものを嫌わない生き物は腐った物食べてしまい死んだ。または、腐ったものを嫌わなくても、腐ったものを食べてもダメージを受けない生き物なら、生き残っている。


ここで重要なのは、ほとんどの生き物にとって、生き残るということは、自分のこどもを残す、ということであり、自分のさまざまな特徴のうち、死なないという特徴が、自分のこどもに受け継がれる、ということである。つまり、死なないような特徴と、自分のこどもに受け継がれる特徴は異なることができる。死なないような特徴と、自分のこどもに受け継がれる特徴が一致する生き物だけが生き残る。


腐ったものを嫌う、もしくは、腐った物食べても死なない、という特徴が、こどもに受け継がれない特徴なら、この特徴は、自然淘汰説(自然選択説)の対象とならない。
まったくこどもに受け継がれない特徴が、生死にとって最も重要な特徴であるとすると、自然淘汰説(自然選択説)は成り立たない。現状はなぜか、生死にとって重要な特徴が、こどもに受け継がれるような生き物が多い。もしくは、生き物が生き残るかどうかと、死なないような特徴をその生き物が備えているかどうかは、あまり関係がない。


なんか間違った考えのような気がする……。間違った、というより、穴が多すぎる考え、というべきか。