もう一度色の見え方について

問題「「私が見ている赤い色は、他の人なら青いと感じる色かもしれない。もしそうなら、私はそのことに気づくことができない。」という考え方は正しいか?」

    • 私は赤い色を見て<青い>と感じ「これは赤い」と言う。青い色を見て(たとえば)<赤い>と感じ「これは青い」と言う。
  • 「他の人なら青いと感じる色」がどのような色なのか、それは「青い」のか、その「青」さはどういう色なのか、を確定できるとすれば、私が赤いと感じている色は当然他の人も赤いと感じているような状況においてのみなので、問題のような疑問を感じるのならそもそも「他の人なら青いと感じる色」と言えなくなる。したがって誤り。
    • 「「赤いりんごを持ってこい!」と言われたとき、私は心の中で「赤い色」という名前の色(青い感じがする色)をイメージし、りんごが並んでいる場所に行き、心の中でイメージした「赤い色」(青い感じの色)と同じ色の、赤いりんご(青い感じのするりんご)を手に取る。」のではない。これは以下の説明からわかる。
    • 「「赤い色を想像しろ!」と言われたとき、私は心の中で「赤い色」という名前の色(青い感じがする色)をイメージし、心の中に入り、心の中でイメージした「赤い色」(青い感じの色)と同じ色を、心の中でイメージする。」こうはならない。
      • 私たちは、端的に赤い色のりんごを持ってくる。端的に赤い色をイメージする。ここでは、「心の中で感じる赤い感じ」は問題となっていない。
  • 上の問題を、「「私が見ている「わ」は、他の人なら「れ」と感じる文字かもしれない。もしそうなら、私はそのことに気づくことができない。」という考え方は正しいか?」と言い換えられるか。
    • 形は「第一次性質」、色は「第二次性質」。
  • 「わ」には調和を感じ、「れ」には荒々しさを感じる。同じように、赤には熱さを感じ、青には冷静さを感じる。
  • 「私が「わ」に「れ」を感じているのなら、「わ」を見て(「れ」を感じ)「荒れている」と言うが、他人は「優等生的だ」と言う。私は赤を見て「落ち着く」と言うが、他人は「刺激的だ」と言う。ここに不一致があるので、気づくことができる」と言えるのではないか?
    • 「私は赤を見て「落ち着く」と言う」とすると、そのとき、私は赤い色を見て青を感じている、とは決してみなされず、赤い色の印象が普通の人とは違う人、とみなされざるを得ないのではないか? だとしたらこれはどういうことか?
  • 「円を想像しろ」と言われて想像したら「いやそれは円ではない。右上のほうがゆがんでいる」とは言われない。想像した円は「x^2 + y^2 = r^2」のような理念的幾何学的なものであって、経験的なものではない。「赤」も同じようなものではないか? 赤い色とは、経験的に心の中で感じるようなものではなく、信号の止まれの色や、ポストに塗られている色、のようなものではないか?
  • 「私が見ている赤い色は、他の人なら青いと感じる色かもしれない。」という主張は、どのようにすれば正しい主張だと確かめることができるのか。このような主張は、どのような事実が観測されれば反証されるのか。
  • 「私が赤い色を見ているときに感じている色は、他の人なら青いと感じる色かもしれない。」を確かめるには、私が感じている色を、誰でも見ることができる状態、誰でも確かめることができる状態になっていなければならない。しかし、私が感じていることは、私以外の誰も確かめることができないからこそ、「私が赤い色を見ているときに感じている色は、他の人なら青いと感じる色かもしれない。」という主張が成り立つ。つまり、問題の本質は、私が感じている感じは私にしかわからない、ということなのだから、この想定は、問題の本質上確かめることができない。他人にはそれがわからない、私にもわからないことが問題の本質なのだから、この主張は無意義な主張ということになる。