脳を必要とするもの

さっきまで自然に会話していた人に、実は脳が無いとあとでわかった、としても、会話が自然とできていたことに変わりはないし、その人が考えていたことも確かなことです。(あとで脳がないことがわかったら、その人は実は考えていなかった、となるわけではありません。※)また、確かに脳があり、正しく機能していることが正確な測定で確認されたとしても、その人に話しかけても話をしてくれなかったり、全く考えていないような受け答えをされれば、会話をしていることにはならないし、考えていることにもなりません。つまり、人が考えているかどうかに、脳の有無は関係ありません。



しかし、ある人が「よーしわかった。考えているかどうかに脳の有無は関係ないんだな!」と言い、人の脳を破壊してしまったとすると、脳を破壊された人はおそらく考えることができなくなるでしょう。
(考えることのできる機械を作ろうとするときには、脳に似た器官(部品)を、その機械に設置することになるのではないか、と思います。(「考えることのできる機械」とはどのような機械のことを意味するかによるかもしれないが。))
この意味で、考えることができるかどうかに脳の有無は関係を持ちます。



関係を持つとはいえ、考えることができるかどうか、ということと脳との関係は偶然的な関係です。思考に必要な器官は脳でなくても、たとえば、心臓でも、かまわないからです(器官記憶)。
一方、会話が自然とできたり、考え込んでいるように見えたり、考え込んだあとだと思われる受け答えをする、ということは、考えているかどうかにとって、必然的な関係です。それが考えるということの意味、考えるという言葉の意味だからです。現在は、状況やそれまでの歴史的社会的自然的経緯により、考えているかどうかは、考えていると思われる行動をしているかどうかで決まるが、状況や経緯が違えば、考えているかどうかは、りんごを食べているかどうかで決まる、となったりはしません。



考えているかどうか、と、考えることができるかどうか、の違いについて注意すべきかもしれません。普段、ある人について、考えることができるかどうか、が問題になることはあまりありません。人間は考えることができるに決まっているからです。考えることができるかどうかが問題となるのは特殊な場合だけです。それはたとえば、事故で頭を強く打ったときであるとか、気絶して意識が戻るかどうか確かめなければならないときなど、でしょうか。これらの場合は、行動として現れる反応がすべてではありますが、同時に、脳などの身体の内部構造について意識せざるをえない場合でもあります。
「考えることができるかどうか」とは異なり、「考えているかどうか」が問題となるのは、何か目的のある行為をしなければならないとき、ということになるでしょうか。それまでの成果や行動が、とても考えてやっているとは思われないとき「おまえ、ちゃんと考えてやっているのか?」「ぼけっとするな!」と言われるでしょう。ここでは内部構造は全く問題となっていません。
となると、脳の有無が問題となるのは、考えることができるかどうか、についてであり、このような可能を問う問題は、人が考えているかどうか、という問題とは、かなり異なる問題だということになるのでしょうか。



※あとで脳がないことがわかったから、その人は実は考えていなかった、となるわけではありません。
と書きましたが、あとで脳がないことがわかったとき、「そう言えばどこか話し方が変だったわ……。まるで人間の心を持っていないかのような、冷たい話し方だった……」と思う場合もあるでしょう。この場合、脳の有無が、人が考えているかどうかに直接関係することになるのでしょうか。と思いそうになりますが、「そう思えば変だった」と思うのは、脳がないという、それ自体考えているかどうかに重要な表向きの証拠が出てからのことであって、脳がないという証拠が出る前は「そう思えば変だった」と思わないのだし、その後脳を移植したとき、移植後脳内の観測結果から正常に考えることができるようになったと確かめられてから、当時の話を聞いてみると記憶がちゃんとあり、当時どのように考えていたのかの説明もしっかりできるとなると、当時も考えていたと結論付けざるを得ません。そういうことは現実には起こらない、ということが、思考には脳が必要であることの証拠である、と考えそうになりますが、そうではなく、そういうこと以前の、何が思考と見なされるかの基準の問題なのです。