考えているのか、考えていることは何か、の決め手となるもの

あのときは熟慮を重ね考えながら話すというふりをしていたのだ。実はなにも考えていなかった。適当に話していた。
ということが、予想もしない出来事として後で語られた場合、その告白にはどのような意義があるだろうか。


そのときの表情はぼけっとしていて、その後に言ったことも考えた末の内容だとはとても思えないが、脳の測定結果は、人が真剣に考えている時に観測される結果と同じだったとする。この場合、実はこの人は真剣に考えていたのだ、という結論になるのだろうか。それとも、測定の誤差と考えられるのだろうか、あるいは、真剣に考えているときには脳内がA状態になる、という法則(仮説)における例外状態(法則が現実に100%合致することはない)と考えるべきなのだろうか。


人が考えているかどうか、「Aさんは今考えている」という記述が正しいかどうかの基準は、あくまで、人が考えているとされる判断=言葉の意味(?)、による。脳内でどのようなことが起こっているかどうかということは、基準ではない。「脳なんかなくてもかまわない」(Nさん)というのはそういうことだろう。初めは、いや、脳は必要だ。脳が無いと何も考えられないではないか、としか思えなかったが、脳があるかどうかが、人が考えているかどうかの基準ではない。脳と思考は関係ない。これは、心と脳の問題(思考と脳の問題)ではなく、何が思考と判断されるか、という問題だ。


という考えが妥当なのかどうか。


あとで告白した場合、もう告白しちゃったのだから、実は何も考えていなかった、ということが意義を持つようになる。「証拠が無ければ騙されるほうが正しい」という状況からは脱している。



<同じように、もしかすると彼は、他のみんなが赤いと思ったり言ったりしている色を、他のみんなが青だと思ったり言ったりしている色だと思っているかもしれない、ということは100%ない。>


考えているようにしか見えないが、もしかすると考えていないかもしれない、と言えるかどうか。これは言えそうに思える。
どう見ても考えているようにしか見えないが実は考えていなかった、ということが意義を持つ場合、「考える」ということは、結果の問題ではないことになる。脳内測定も失敗することはある。測定には失敗したが、彼は考えていたのだ、と言うことに意味がある。
この、「結果の問題ではない「考える」」とはどういうものか。



「考えろ!」という命令に対し、どのようにすれば、その命令に従ったことになるか。
自分自身に対し、「考えてみよう」と思った場合、どのようにすれば、その思いを実行したことになるか。


それに対し、「結果の問題ではない「考える」」を、どのように擁護できるか。