怒りは状態ではなくて表出であることについて

怒りが状態であれば、それをただ眺めるだけ、ということができそうですが、そういうわけにはいきません。怒っている人を間近に見たときは、誰でも何らかの反応を強いられます。怒っている本人も、自分の怒りに対して無表情で対応されることを期待してはいないと思われます。こう考えると、怒りは確実に表出、つまり、アピール行動であるように思えます。

ただの状態であっても、眺めるだけではいられない状態というのはあります。自分に向かって大きな木が倒れ掛かってくるときであるとか、近くにいる人の脚が切断されて血液が大量に流れ出しているときなどです。怒りは自分の意志によって煽ったり抑えたりすることができますが、木や血は自分の意志によって倒れさせたり流出を止めたりすることはできません。人の反応を強いるかどうかで、状態か表出かを決めることは間違いかもしれません。

自分に向かって大きな木が倒れてくるときは、避けるなり木を手で支えるなり何らかの対応をしなければなりませんが、これは偶然的な対応です。木が倒れることが空気のゆるやかな動き程度の意味しか持たない状況なら、何の対応もしなくてよいからです。脚が切断された人が近くにいる場合も、脚が切断された人を平然と見過ごすことができる場合も十分想定が可能であるという意味では、木を避ける場合と同じように偶然的な対応です。同じように、怒りにどのような対応をするのかも、偶然的な問題です。ただ、怒りを平然と見過ごすことができる状況を想定した場合、その怒りは、現在の見過ごすことのできない怒りと同じような怒りでしょうか。反応の違いが、怒りの意義を変えてしまうことにはならないでしょうか。怒りと、倒れる木や脚を切断された人は、ここが違うように思います。