怒りが肯定できないことについて

怒りは自身を強く肯定する、とはいっても、怒りは無いほうがよい、怒らないほうがよい、という価値観は、ほぼ絶対的です。いくら怒りを肯定する、と言っても、この価値観は揺らがないような気がします。せっかく考えているのに「気」の話をしてしまっては怒りを考える意味がなくなるかもしれませんが、怒りを肯定するにしても、結局は条件付肯定しかできず、怒りそれ自体をそのまま肯定することは、難しいように思えます。なぜだかよくわかりませんが、優しくて、穏やかな、そういった怒りとは正反対の状態が、あるべき状態、目指すべき理想の状態として、絶対的に考えられている、考えてしまわざるを得ない、という事実があります。それが事実かどうかわかりませんが、そのように思えます。

それはなぜか? ということなのですが、それはなぜか、と考えることそのものがむなしい、ように思えてしまいます。怒るのはいやだし怒られるのもいやだ、そんなことは当たり前のことで、怒らないでいられるような精神状態になりたいということは絶対的なことです。怒ることは良いのかどうか考える気すらあまりおきません。怒ることは良いかどうかと考える以前に、怒りは良くないこと、避けるべきことに決まっているように思えます。「社会的正義の実現のための努力をゆるめないためにあの怒りを忘れない」といった状況も十分考えられますが、これこそが条件的肯定であって、社会的正義の実現とはつまり穏やかな社会(怒りの無い社会)の実現ということ以外ではありませんから、怒りそのものを求めているわけではありません。ここでは怒りは、いわば必要悪です。社会的正義の実現と怒り(穏やかさ)の有無は無関係かもしれませんが、それならたとえば「怒りに満ちた社会の実現のために努力を怠らない」ということが、前者と比較して説明抜きで飲み込めるかどうかを考えてみればわかりやすいように思えます。怒りは避けるべきものであって、喜んで望むものではありません。それが怒りです。

それが怒りです、とは書きましたが、では、この怒りの避けられ方、怒りの否定のされ方は、経験的なものでしょうか? それとも、論理的あるいは必然的なものでしょうか? さまざまな自然的条件、社会的条件、歴史的条件などにより、現在怒りは絶対的な悪(条件的にした肯定できないもの)となったが、状況や経緯によっては、怒りは絶対的な悪とならなかった、と考えられるでしょうか。現在そうであるのとは異なった条件を考えれば、怒りこそが人間の求めるべき理想の精神状態だと考えられている社会が想像できるでしょうか。こう思うと、その想像は容易であるように思えます。現実にそういう社会が存在した、もしくは、いま現に存在している、と思っても、それほど意外ではないような気がします。上で、怒りが良くないことは絶対だ、と書きましたが、それは浅はかなことだったのでしょうか。怒りが避けられる理由が経験的な理由だとすれば、その経験を考えれば、現在の社会においても否定されない怒りを考えることも可能なのではないでしょうか。不可能ならその不可能性の理由が判明します。

怒りが理想とされている社会を考えることは容易なように思える、と書いたばかりで申し訳ないのですが、やはりここはなんとなくひっかかります。怒り自体に、怒りの意味自体に、それが否定されるべきものが含まれているような気がします。とはいっても、怒りの意味(怒りの定義)には、「避けられるべきもの」というのは含まれていないでしょう。怒りが避けられるべきなのは、やはり経験的な問題だと思います。にもかかわらず、そうではない、ような気もします。怒りが、人間の心情のある状態、ある精神状況、を意味するのであれば、それを好んだり否定したり、できますが、そうではなく、怒りは状態ではなくて、ある種の表出なのではないか(「彼は誰にも気付かれなかったが、実は怒っていた。」「彼は誰からも穏やかで優しい人物と思われていたが、実は酷く怒りっぽい人間だった。」)、そのことが、怒りが否定される理由を、経験的でありつつも必然的=論理的であるように思わせている理由ではないか。

なんとなく無理矢理ウにつながったのですが、こういう点から、スの感情論を考えるとどのようになるのかなぁ……。全然接点が無いだけでしょうか。

崇高な目標実現のための原動力としての怒り、日常の些細なことにいちいちひっかっかるみっともない怒り。