怒りの自己肯定について

怒ることがあまりにも否定されているので、怒りを肯定したい、という気持ちはあります。
とはいえ、「怒ることがあまりにも否定されている」ことは、それほど重視すべきことではないとは思います。そういうことはただの事情だからです。ただの事情以外に重視すべきことがあるのか、という考えもあるとは思いますが、ただの事情を重視してしまうと、そういったただの事情は怒りを否定しているのですから、怒りを肯定すること自体に意味がなくなってしまいます。
怒りの肯定のポイントは、なぜ怒りが否定されなければならないのかについての一般的な判断以上のものが見られないため、たとえばそれを利用したものとして、怒ったらみっともないから負けになるのでこっちは怒らず穏やかに話して相手をみっともなく怒らせて負けにさせる、という戦術が存在する、というようなことに対する疑問にあります。怒ることがあたかも道徳的に劣っており怒らないほうが優れているという判断が無批判に広まるなかで、それを利用した戦術や、怒りへの軽視は問題ではないか、と思えます。(散々ひどいことを言っておいて相手に手を出させ、待ってましたとばかりに、暴力はいけない、と言う戦術、に対する憤りと似たものがあります。)
怒りの肯定に問題があるとしたら、怒りはあまりにも怒った自己を肯定するために、怒り対象を否定しがちであることです。怒りの原因=怒り対象にも、それが存在する以上、それが存在するに至った過程というものが存在するのであり、いくら怒りが確かなものであるとはいえ、怒り感情によってその存在理由を否定することなどできません。
怒り感情自体は否定すべきものではないが、怒りによって怒りの対象が否定できるわけではなく、怒りの感情によって怒り対象をどうにかしようとするのは的外れです。怒りの対象をどうにかしようとする段階になってはじめて、怒ることは得策ではない、という戦略が出てくるわけです。
一般的に、人に好意を示すと、その人からは好意を持たれます。これはよく言われる経験則です。(これは大雑把な経験則に過ぎないので、好意を示されるかどうかを明確に重視しない人に対しては全くあてはまりません。)怒らずに穏やかに状況を整えるほうが、怒りの原因を取り除く、その発生を防ぐ、という点では、怒るよりも優れているといえるでしょう。しかしそれはあくまで心底怒り狂った後で考えるべきことであり、最初から穏やかにするべき、というのはただの転倒です。怒り狂うくらいのことだから、何とかしたいのであり、何とかしたいから、怒らないという選択を取る、という順序になるのではないでしょうか。


全然関係ありませんが、私は『神o聖喜劇』では神山や○○に最も親近感があります。『深淵』ではっきりわかりましたが、東堂は証拠も無いのに○○を犯人と決め付けすぎです。『神o聖喜劇』でも『深淵』でも、エリート主人公が証拠も無いのに犯人と決めてかかった人物が実は犯人でなかったという結論だったら、いったいエリート主人公はどうするのでしょうか。『深淵』では決め付けがあまりに酷いので、きっとこれは後でどんでん返しが来るぞ、と思っていたのですが、結局そのまま終わってしまいました。エリートがずるくてしょうもないやつを犯人だと決め付けて、ずるくてしょうもなやつがいかにずるくてしょうもないやつかのエピソードがだらだらと続いて、結局最後にずるくてしょうもないやつが犯人とわかって終了です。小説は私好みの話を確認する安心ツールではないのですからこれでいいのだとは思います。