「うるせぇよ!咳」について

結局、怒らないようにする訓練をすればいいだけなのに、あるいは、他人より怒りやすいという自分の欠点を肯定したいために、無駄なことを考えているだけなのではないだろうか。怒ることを肯定するような事情について考えているとき、元気が出たような気分になる。こういう元気もある。元気にも良い元気と悪い元気があるということか。


昨日の朝電車の中で「うるせぇよ!」と大声で叫ぶ声が聞こえました。私は、病気の人かな、と思いました。これは差別でしょうか? 通勤電車の中で大声で「うるせぇよ!」と叫んだからといって、叫んだ人を病気と決め付けてよいのでしょうか。では、病気の人ではないとしたら、話せる人なのでしょうか。もちろん病気の人とも話しはできますが、話をする困難さが一定の水準を超えている状態を病気とすると、その水準を下回っている人でしょうか。いや、そもそもこういう基準で病気か病気じゃないかを判断するのは完全に間違っていてるかもしれません。「うるせぇよ!」のあと、車内は、シーン…… となりました。『ガラスの仮面』で示されるところの、ツーン…… です。この反応が、叫んだ人の病気っぽさを示していますと書くと、理想の私は憤っていますが、現実の私は、まず最初に、病気かな、と思いました。「うるせぇよ!」からしばらく経ったあるとき、誰かが「コホンコホン」と咳をしました。その直後「うるせぇよ!咳!」と怒鳴り声が聞こえました。これで完全に車内は静かになりました。本当は、「うるせぇよ!咳!」を聞いた後、そういえばその前に誰か女性が「コホンコホン」と咳をしていたな、と思いました。最初に聞こえた「うるせぇよ!」も、正確に書くと「うるせぇよ!せ○○」と聞こえたのです。ですが、「せ○○」の部分がよく聞こえなかったので、「うるせぇよ!」しか印象に残りませんでした。「うるせぇよ!咳!」を聞いた後、そういえば最初の「うるせぇよ!」の後にも何か聞こえたな、と思ったというわけです。咳が気になる病気の人と言えば、「咳の人*1が最初に思い出されますが(咳の人を病気だと決め付けては判断を誤ります)、咳の人が咳をする人を恐れているのに対し、「うるせぇよ!咳!」の人は、咳をする人に怒鳴っています。「うるせぇよ!咳!」の人は、咳に怒っているわけですから、怒りの理由は明確であり、話ができる人です。しかし、「うるせぇよ!咳!」を聞いた後、私は更に、病気の人かな、と思いました。電車内で大声を出す人は、いつも、病気の人かな、と思ってしまうのですが、他人がこういうことを話していたり書いたりしているのを見たら、私は、少しでもずれたら病気扱いか!、と怒り狂い、怒りブックマークを付けると思います。
「うるせぇよ!咳!」の人の怒りは明確です。咳がうるさい、だから怒鳴る。これが病気と思えるのは、(現在の日本では)電車の中で大声を出すことは、かなり非常識な行為だからです。でしょうか。ですから、「うるせぇよ!咳!」が病気であるのは、その内容ではなく、その声の大きさ、にあります。大声を出す理由が、「殺されるかもしれないから小鳥を飼うこと」と同程度の突飛さにつながるわけです。
しかし、「殺されるかもしれないから小鳥を飼うこと」には、病気判定にふさわしい話しのできにくさ、非論理がある、わけではなく、ちゃんとたどれば、理解できそうです。「うるせぇよ!咳!」の声の大きさにも、もしかすると、それなりの理由があるのではないでしょうか。
実は、「コホンコホン」のあとに、「うるせぇよ!咳!」を聞いたとき、なるほどな、それはそうだな、大声も出すよな、と納得した部分がありました。私が病気と判断するまさにあの異常な声の大きさこそが、あそこで必要だと思えた部分がありました。私も普段、公共の場所で、大声で怒鳴りたいのを我慢することが多いのです。私も病気なのだろうか、私は怒りすぎだろうか、とよく思います。電車の中で大声で怒鳴りつけたくなる理由について、詳細に追ってみることが大事なのではないか、そうすることによって、咳の怒りがわかり、私の怒りもわかるのではないか、そして、それが病気かどうかわかるのではないか、と思いました。もしかすると、こういうことにあまりこだわらないほうが良いのかもしれません。こだわればこだわるほど良くないのかもしれません。

人が密集しているところで大きな音を出すことは、基本的にはマナー違反と言える場合が多いと思います。朝の満員電車となればなおさらです。携帯電話に限らず、電車内での会話も、それほどおおっぴらにはできないでしょう。やってはいけないわけではなく、多少の気遣いは必要になるのではないか、ということです。咳も同じことです。咳の出す音はかなり大きいです。しかも咳は、風邪などの病気の原因となるものも出しますから、この点では音以上に注意が必要なはずです。しかし咳は、話よりも意志で制御できる部分が少なく、咳の発生のうち20%くらいは(フィーリング)、不随意に、不可避的に、出てしまうものです。人や病状や体調やその場の状況によっては、その割合がもっと高くなることもあるでしょう。だからといって完全に不可避的に出ることは少なく、ほとんどの場合は、意志によって抑え込むことができます。もし、意志によっては絶対抑えられないような咳が継続的に出るような状態なら、そもそも公共の場所に出て行くこと自体を問題とすべきでしょう。しかしとにかく、咳は、出したくて出すものではなく、体調の悪さによって、望まずして出るものです。このこともあり、人は、自分にも、他人にも、咳をしてしまうことに対してわりあい甘い基準で臨んでいるのではないでしょうか。わりあい抵抗なく、ゴホッゴホッとやってしまうのではないでしょうか。携帯電話での会話が絶対禁止されていることの理由の不明さを今は問わないとすると、携帯電話での会話以上に実害が大きそうな咳については、事実上野放しです。(ここにもコンニャクと餅の製造禁止問題と同じような事情が見られるのかもしれません。見られないかもしれません。)そのことについて私は普段から憤っていたとします。ところかまわず安易に咳しやがって、もうちょっと考えろ、と普段から思っていたとします。しかしそう言うことを誰に言えばいいのでしょうか。どうすれば公共の場所で不意に咳される被害を防ぐことができるでしょうか。どうしようもありません。せいぜい個人にできることと言えば、不意に咳をされても大丈夫な体制を自分が作っておくこと、咳をされそうな場所には近づかないこと、咳をされることについてこだわらないように自分の気持ちを変えること、ぐらいしかありません。このようなときに、朝の満員電車で女性が「コホンコホン」と咳をしました。咳が出るくらいだから喉に何か問題があるのでしょう。だから「コホンコホン」と出てしまうのでしょう。ああ咳をしているな、体調が悪いんだな、早く治ればいいですね。と心に余裕のあるときなら思えるかもしれません。同時に、その程度の咳、抑えられない咳じゃないだろう。ここには私も居るしみなも居る、私の母は私が幼少期に他人からインフルエンザをうつされて死んだ。人が死ぬ可能性だってあるんだ。なぜお前はそんなに安易に咳ができる?こんなに込み合っているのに、なぜそんなに無責任なことができる?しかし誰もそれに文句を言わない。こいつもまた次すぐに咳をするだろう。次に乗る電車でも咳をするだろう。明日も咳をするだろう。こいつに家族があれば、その家族も咳がでるときに安易に咳をするだろう。それでいいのだろうか。私の母は他人にうつされたインフルエンザで死んだ。私は自分の不幸にこだわっているわけではないが、私のこうした特殊な事情が、特殊でもないと思うが、私の道徳観を歪ませているのかもしれない。しかしそうだろうか。やはり他人に危害を加える可能性のある行為は、個人でどうにか制御できる範囲なら、できるかぎり制御するべきなのではないか。いやそんな一般的な話をしているのではない。私は自分が快適に生きたいだけだ。快適に生きるには病気をしないほうが良い。自分の不摂生で病気になるのなら仕方ないのかもしれないが、いや一体なにが自分だけが原因の不摂生といえるだろうか、今はそんな難しいことを考えているのではない、快適に生きるには病気でないほうが良いその病気を他人にうつされるのはごめんだ。それだけのことだ。うつされそうになったらうつさないようにしてくださいぐらい言って当然だ。当然ではないのだろうか、私の頭がおかしいから、ここでこんなに悩んでしまうのだろうか。気にしなければいいだけの話だろうか。私は電車内で他人に咳をしないように注意する人を今までに見たことがない。ということは、他人に咳について注意する行為は病気行為だろうか。しないほうが良いのだろうか。だいたいここで私がこんなに悩んでいることをこいつはわかっているのだろうか。「コホンコホン」「うるせぇよ!せksjl」 ……言ってしまった。言ってしまったが大丈夫だろうか。これは相当恥ずかしい異常行為ではないだろうか。ああまたやってしまった、これで今日一日今のことを思い出してろくな仕事ができなくなる。夜も眠りが浅くなる。今のことを思い出して恥ずかしさのあまりわあっと叫び出したくなることが何度もあるだろう。しかしやはり言うべきだったのではないか。人前で安易に咳をしてはいけない。ほとんどの咳は抑えられるものだ。抑えられない咳が何度も出るのなら電車には乗らないほうが良いのだ。これは障害者差別だろうか。歩けない奴は家にいろという酷い意見と同じだろうか。私は酷いことを言ったのだろうか。私の母はインフルエンザで死んだ。人が死ぬことだってあるのだ。身体障害者とは問題が別だ。私がこんなにごちゃごちゃ考えていることは滑稽なことだろうか。つまらないどうでもいいことにこだわっているだけだろうか。早く新宿に着かないだろうか。それにしても咳をしたやつはちゃんとわかってくれただろうか。注意した私を嘲笑って、また咳をするのだろうか。また基地外がなんか言ってるよくらいにしか思わないのだろうか。そうかもしれない私は基地外かもしれない。基地外差別用語だろうか。自分のことだからといって差別用語で卑下して良いのだろうか。「コホンコホン」「うるせぇよ!咳!」。「うるせぇよ!咳!」に向かって感情が高まっていくように気持ちを配置すればわりと理解できるのではないでしょうか。大声で言わなければならなかった、ドスを効かせた声で咳をした人にだけ聞こえるようにささやくのではなくむしろ大きな声で叫ぶことを選んだ理由も明示すべきでしょう。咳をした人の非人道ぶりに誰もが納得するくらいのことが書ければ申し分ありません。

*1:自分の近くで咳をするのは自分に何らかの抗議の意思表示をしているため、と判断する人