感覚の想起

一五九
「私は歯痛を感じた。」――こう言うとき、私は自分の振舞いではなく、自分の痛みを想起している。ではこの想起はどのようにして起こるのか。痛みの弱められた像が思い浮かぶのではないか?――ではそれはちょうど人がきわめて弱い痛みを感ずるようなものなのか?「いや、それは別の種類の、何か独特な像なのだ。」
(以下略)

一六一
それを誰にも知らせなくともある感覚を感じたということが意味を持つのは、「私はこの感覚をあのとき感じたのだ。私はそのことを覚えている。」ということが意味をもつことと関連している。
人は次のように言うことによってその関連を明らかにしうるだろう。ともかくわれわれは「私があのとき痛みを感じたと一度も言わなかったとしたら、痛みを感じなかっただろうに」とは決して言おうとしないではないか、と。

一七二
つねに声に出して思考し、絵を描くことによって想像する人々を考えてみよ。あるいは、われわれが何かを想像する場合に、その代わりに絵を描く人々というほうがより正確かもしれない。ここで私が自分の友人を想像する場合に対応するのは、こうした人々がその友人の絵を描くことではない。[対応が成立するためには]そうした人は、その友人の絵を描くことに加えて、それが自分の友人Nであると言うか書くかしなければならない。――だがもしその人に二人の友人がいて、その二人がたがいによく似ており、しかも同姓同名であったとしたら、そして私がその人に「君はどちらの友人のことを言おうとしたのか。利口者のほうか、馬鹿者のほうか」と尋ねたとしたらどうか。――[絵と言葉だけでは区別がつかないが、それが思考内容のすべてなのだから]その人はこの問いには答えられないであろう。しかし「この絵はどちらの友人を表しているのか」という問いに答えることはできる。――この場合その答えはこの絵に新たに付け加えられた使用法なのであって、何らかの[心の中の]体験に関する言明ではない。