〜として見る・見えているものの記述

七九
かりに私が見えるという内的状態の存在を信じていないのに、他人が「私には……見える」と言ったとしよう。このとき私はこの人が日本語*1を知らないのかあるいは嘘をついているのだと考えるであろうか。

八三
「<これを見る>ということはかくかくの反応をすることを意味するのではない。――なぜなら何も反応をしなくとも見ることは可能だからだ。」もちろんその通りだ。なぜなら「私は見る」ということは「私は反応する」ことを意味しないし、「彼は見る」ということは「彼は反応する」ことを意味しないし。「私は見た」ということは「私は反応した」ことを意味しない等々であるから。
そしてたとえ私が何か見るときには必ず「私は見る」と言うとしても、そのことばは「私は<私は見る>と言う」ことを意味するのではないからである。

八八
私が自分の知っていることを語る場合、まさしく自分の知っているところのことを語ることはいかにして可能か。



八九
私に見えているものの記述とは何か?(これは単に、私が自分に見えているものをいかなる言葉で記述すべきかという問いを意味するだけではない。――さらに、「私に見えているものの記述とは一体どんなふうなものなのか、私は何をそうした言葉で呼ぶべきか」という問いをも意味しているのである。)

九一
経験ないし体験の<内容>。――私は歯痛とはどんなものか知っている。私は歯痛を直接経験によって知っている。私ハ赤色ヤ緑色ヤ青色ヤ黄色ヲ見ルトハイカナルコトカヲ知ツテイル。私ハ悲シミヤ希望ヤ恐レヤ喜ビヤ愛情ヲ感ズルトハイカナルコトカ、何カヲシタイト望ンダリ、何カヲシタコトヲ思イ出シタリ、何カヲスルコトヲ意図シタリ、一ツノ絵ヲカワルガワル、時ニハ兎ノ頭トシテ、時ニハアヒルノ頭トシテ見タリ、アル言葉ヲ別ノ意味デハナク、アル特定ノ意味デ理解シタリ、トイツタコトハイカナルコトカヲ知ツテイル*2。私はまたaという音が灰色に、üという音が濃いむらさき色に見えるとはいかなることかを知っている。――私はまた、これらの諸体験をつぎつぎに思い浮かべるとは何を意味するか知っている。私がそれらの体験をつぎつぎに思い浮かべるとき、私はさまざまな種類の行動や、さまざまな状況を思い浮かべるわけではない。――それでは私はこれらの体験をつぎつぎに思い浮かべるとは何を意味するか知っているというのか。その意味するものは何か。私はそれを他の人に、あるいは自分自身にいかにして説明しうるか。



かりに私が、怒りや、歯痛や、赤く見える、という内的状態など無いと考えているのに、他人が「私は抑えているが怒っている」「我慢しているが歯が痛い」「ポストを赤いと感じている」と言ったとしよう。このとき私は、この人が日本語を知らないのかあるいは嘘をついているあるいは何か誤解しているのだ、と考えるであろうか。

*1:「原文では「ドイツ語」【訳者】」

*2:「片仮名で書いた部分は原文が英語で書かれている。【訳者】」