感情・表出

五〇六
好意的な口、好意的な眼。人は好意的な手というものをどう考えるのだろうか。――多分、拳ではなく、開いているものとして。――人間の髪の色を好意の表現として、あるいはその逆の表現として考えることができるだろうか。しかし、そのように提示されると、問題は、われわれがそれをうまくやれるかどうか、ということにあるように思われる。その問いはこうなろう。すなわち、われわれはあるものを、好意的な髪の色、あるいは非好意的な髪の色と呼ぼうとするだろうか、と。かりにそのような言葉に意味を与えようと思う場合、われわれはおそらく、怒ると髪の色が黒くなる人間を想像するだろう。しかしながら、黒い髪の内に怒りの表現を読み取るということは、既存の観念を通してはじめて成立するのである。
こうも言えよう。好意的な眼、好意的な口、犬が尾を振ること、これらは、別のものと一緒に、根本的で相互に独立な、諸々の好意のシンボルに含まれる、と。つまりそれらは、好意と呼ばれる諸現象の一部なのである。もし人が他の諸現象を好意の表現と見なそうとするならば、その諸現象のうちにそれらのシンボルを読みとっているのである。われわれは「彼は暗い顔つきをする」と言う。多分、寄せた眉毛が眼のかげりを深くするからである。そこでわれわれは、暗さの観念を髪の色に移行させる。



五〇七
楽しさが感覚であるかいなかを尋ねる人は、おそらく、理由と原因を区別していないのだろう。なぜなら、区別しているなら、あるものを楽しむとは、そのものがわれわれにある感覚を引き起こすということではない、ということに思いついたはずである。*1



五〇八
しかしとにかく、楽しさは顔の表情を伴う。そしてわれわれは、自分自身に関しては確かに顔の表情を見るわけではないが、しかしそれに気づいている。
喜びに輝く表情をして、何か非常に悲しいことを考えてみよ!



五〇九
悲しんでいる人の内分泌腺は、喜んでいる人の腺とは違ったふうに働く、ということは確かに可能である。また、その分泌が悲しみの原因、あるいは、原因の一つであるというのもありそうなことである。しかしこのことから、悲しみはこの分泌によって引き起こされた感覚であるということが帰結するだろうか。



五一〇
しかし、ここで検討さるべき思想は次のものである、「だがとにかく、あなたは悲しみを感じている――だから、それをどこかで、感じていなければならない。そうでなければそれは幻影であろう。」しかし、もしそのように考えたくなったら、見ることと痛みの相違を思い起こせ。わたくしは傷に痛みを感じる――しかし、眼に色を感じるだろうか。もし実際に共通しているものをただ記録するのではなく、一つの図式をあてはめようとするならば、あらゆるものを誤って単純化された姿で見てしまうことになる。



「寄せた眉毛が眼のかげりを深くするから」かどうか、黒さが怒りのシンボルに含まれているかどうか、は重要ではない(はず)。サイヤ人の髪の色は金色だからだ。
「怒っているようには全く見えなかった」怒りが、実際に怒りとして確認されるのは、「私はあの時楽しんでいた」という告白ではなく、脳のどこかにある化学物質が確認されたときでもなく、「私はあの時怒っていた」という告白行為が確認されたときであったり、「怒っているようには全く見えなかった」時に行われた行為が、害悪を引き起こすように意志された行為だと確認されたとき、あるいはそれに似た行為が確認されたとき、でしかなく、髪の色が黒ずみ始めた人が怒っているかどうか、の確認もまた、現時点では、そのような確認を必要とする。
脳のどこかに、人間なら怒っているとき必ず発生する化学物質が確認されたときでも、その人が怒っていないことは可能ですが、物凄い怒りの形相で顔を真っ赤にし怒りの相手に殴りかかり汚い言葉を投げつけていながら、その人は怒っていない、ということ(たとえば、脳内に怒りの化学物質が発生していないことが測定されたから、本人が怒っていることを否定したから、等々)は不可能です。いや、それでもその人は怒っていないかもしれない、と考えるとき、その「怒り」とは何を意味しているのか、という問題になります。怒っているフリをしているだけではないか、と考えられるかもしれませんが、「怒ってはいないかもしれない。怒っているフリをしているだけかもしれない」と言う場合の「怒っている」はまさに怒りを意味しているわけです。どこまで疑おうと、それはフリであれ、怒りでしかない、わけです。そして、怒りではなく怒ったフリかもしれない、と明確に言うためには、怒っているという証拠以外に、後ろを向いて舌を出していたとか、少し笑っていたとかいった、別の根拠が必要になるということです。別の根拠もなく、ただ怒っているフリをしているだけかもしれない、怒っていない可能性もある、と言うことは、目を閉じているとき、見ていないときには、私が今いるこの部屋は存在しないかもしれない、と疑うことと同種の、空虚な疑い(「存在」という言葉の縮小解釈=「怒り」という言葉の縮小解釈)となります。
たとえば怒りの表情のように、検証を必要としない怒りとして髪の毛の黒さが認められるようになるには、帰納とは少し違った意味(?かどうか)での経験的蓄積が必要となる、ということではないか。

*1:「ということに思いついた」原文