日記

本当に対立することは不可能、同じ意味で、賛成することはほとんど不可能、ということをなんとなく考えていたところ、今日、それが、道徳的なこと(「あなたは○○だから悪い(良い)」だからダメ(よい)という判断)が最終的な判断とはならない、ということと結びついた。「道徳的なことが最終的な判断とはならない」は、今までは、「道徳なんて……」、といった気分的な判断でしかなかったのですが、「本当に対立することは不可能、同じ意味で、賛成することはほとんど不可能」という考えと結びつくと、気分以上のものになるのではないか。価値的、格付け的な判断(どちらが上か、どちらを重視するか、という判断)の場合、立場や過程や状況によって、どんな主観的な判断もほぼそのまま正当化できるように思える。正当化はできなくても、価値についての主観的な判断に対して、他の主観や客観を持ち出すこと(他の状況や一般的な状況と比較すること)はほとんど無意味になるのではないか。だとすれば、価値判断的な判断は、判断点が一致しないので、対立も賛成もできない。対立も賛成もできないのだから、他を判断する際の基準にはならない。どのような場合にどのような価値判断が優先されるのか、というような、非主観的な話なら、基準の話ができるかもしれない。しかし、そのような話はすでに価値判断の話ではない、のではないか。何を価値判断と呼ぶかの問題かもしれないが。
結局、対立したり賛成したりできるのは、目的が一致している場合の戦術的な問題だけだろうから、ラoイフハッoクが問題となるのは正しいのだった。正しいというか、まっとうだと思いました。「ラoイフハoックなんか……」と思うのは筋違いというものです。「睡眠の質」を問題とするのは妥当な判断でした。いや、「睡眠の質」は違った。言い過ぎた。
「できない自分を全部認めて」さんを肯定することも全然可能で、だいたい、「全部認めて」さんを批判することも、全部認めてさんを批判する自分、あるいは、(努力する前の自己肯定に対する)努力の優位、を認めてください、と主張すること以外ではないと考えることも可能だし、「全部認めて」さんの行為も、単なる怠惰な自己肯定ではなく、ある種の努力の現われかもしれない。それを相手に認めさせることができなかっただけの戦略ミスかもしれない。そのようにも判断できる状況で、どちらか片一方に自信を持って賛成したり反対したりすることなどできるわけがない、わけではなくて、どちらか片一方に賛成したり反対したりしてしまうし、それに自信を持ったりしてしまうが、そのことについて(最終的に)正しいとは思えないし、自信を持つこともできない。
とはいっても、私は常に価値的な判断を独断的に下し、対立相手を一方的に、自信満々で却下している。そういうことを言いたくなるときはある。どう考えてもこっちのほうがまともだと思ってしまうときは(心理的に)ある。だから特に何も言うことはないのでした。でも書いたのですみません……。