感覚を指し示す

四三三
「わたくしが知覚したのはこの――である」、このの後に、ある形式の記述が続く。「この」という言葉を説明しようとする場合、体験の直接的な伝達について考えてみよ、と言うのが一つのやり方である。――だが、その体験が本当に伝えられたということの基準は何か。「今まさに彼はわたくしが体験しているものを体験している」――しかし、彼はそれをどう<体験して>いるのか。


四三四
「ある言葉によって、ある感覚を指し示す、名指す」ということはどういうことか。ここには考察されるべきものは何もないのだろうか。
あなたが諸々の物理的対象に関するある言語ゲ―ムからはじめ――次に、感覚もこれから名指しの対象とする、と言われたとする。それは丁度、まず所有物の譲渡について語り、それから突然、所有の喜びや所有の誇りの譲渡について語りだすのと同じであろう。われわれはここで、何か新しいものを学ぶ必要はないのか。つまり、われわれが同じく「譲渡」と名づける新しいものを。


四三五
主観的に見られたものの記述は多少とも対象の記述に類似しているが、まさに主観的であるために、対象の記述としての機能を果たすことはない。諸々の視覚印象はどのようにして相互に比較されるだろうか。わたくしは、自分の視覚印象を他人のそれとどのように比較するだろうか。


四三六
「内省によって検証する」というのはまったく誤解をまねきやすい表現である。つまり、それは次のことを言っているのである。まず、ある過程、すなわち内省が生じるが、それは顕微鏡を通して眺めることや、何かを見るために頭の向きを変える過程に比較されうるようなものである。そして次に、見るということが続いて生じなければならない、と。人は「向きをかえて見る」、あるいは「眺めて見る」ということについて語ることはできよう。しかしその場合、向きを変えること(または眺めること)は、見ることにとって外的な過程であり、したがってわれわれにとっては、ただ実践的な関心の対象でしかない。彼が言おうとしているのは「見ることを通して見る」ということなのである。


「哲o学者はいかなる観念共同体の市民でもない。まさにそのことが、彼を哲o学者にするのである(『断片』四五五)」(『ウ入門』)にしてもそうですが、永井さんの『ウ入門』や『翔太』には、『確実性』と『断片』に関係する部分も多い。晩期の本なら初期にも後期にも触れるだろうし、『断片』がエッセンスの集積だからそうなるだけのことかもしれませんが、「ここは『翔太』ででてきた」「徴候と基準(規準)については『入門』で出てきた」のようなことを思うことが何度もあった。『断片』終わったら『翔太』と『入門』読み直すことにします。それから中断していた『茶』に行くか『数学』に行くかする。『確実性』と『断片』(全集9)はとても面白い。怒りや恐怖、喜び悲しみなどの感情についての記述(言語ゲ―ム的記述)のところは、少し『エoチカ』を思い出した。怒りや喜びは対象がそれの原因でもある、不安は対象を含んでいない恐怖、のようなところ。