〜として見る


われわれが解釈をしているときには、われわれは推測を行ない、後に偽であることが明らかになるかもしれない仮説を述べる。だがもしわれわれが「私にはこの図形はFとして見えているのだ」と言ったとすれば、これに対しては、「私には輝くような赤色が見える」という命題に対するのと同様、検証も反証もありえない。このような類似性が、前の文の文脈における「見える」という語の使用を正当化するためにわれわれが求めなければならないものなのである。もし誰かが、自分にはそれが<見える>ことは内省によってわかるのだと言ったとしたらどうか。それに対する答は次のようになるであろう。「では君が何を内省と呼んでいるのか私にはどうしてわかるのか。君は一つの神秘を別の神秘によって説明しているのではないか。」(『哲o学探o究』S.212)



一一
誰かが次のような発見をしたと仮定してみよう。すなわちその図形があるときにはガラスの立方体、あるときは針金の枠等々として見ている人の網膜に起こる出来事を研究した結果、それらは被験者がガラスの立方体や針金の枠などを見るとき[その網膜において]観察される出来事に似通っていることが見出されたとしよう。人はわれわれが各々の場合に実際にその図形を異なったふうに見ていることが、このような発見によって証明されるとみなしがちである。
だが何の根拠があってそう言うのか? 一体どうしてこの実験が、直接経験の本性について何かを証言しうるのか?――その実験は直接経験をある特定の現象のグループに編入するのである。



一二
いかにして人は経験A'を同定するのか。私はそもそもどうしてこの経験のことを知ることができるのか。
人はいかにして誰かに「いま私はこの図形を針金の枠として見ている」という直接経験の表現を教えるのであろうか。
多くの人は、「見る」という語は学んでいるが、それをこのように用いたことは一度もないのである。
私がこうした人に問題の図形を示して「いまこれを針金の枠として見るように努力したまえ」と言ったとする――その人は私を理解しなければならないであろうか。もし、その人が次のように言ったとしたらどうか。「君の言う意味は、針金の枠について述べているその本の本文を辿って行くのにその図形を手引きとして用いるべきだということとは違うのか」と。またもし彼が私の言うことを理解しない場合には、私はどうすればよいのか。また彼が私の言うことを理解するとしても、このことはいかにして外面に表されるのか。まさに自分はいまこの図形を針金の枠として見ていると、彼もまた言うことによってではないのか?



一三
したがって、その体験に特有の外面への表現は、上述のような言葉表現を用いようとする性向である。(そして外面への表現ということは、徴候*1とは違う。)



それはそうだけど、自分に見えているあの赤の赤々とした赤い感じや、誰にもなんにも言わないし行動にも表さないけど、自分はいまこの図形をあひるではなくうさぎとして見ている、そしていま見かたを変え、あひるとして見ている、と言いたくなるあの感じは確かにあるし、その感じが、「〜として見る」ということの要素のうちの一つではないのか、とどうしても感じられてしまう。それが誤解だと理解することと、わからなくなることのあいだを行ったり来たり。

*1:「「徴候」(Symptom)とは、ここでは、特定の内的体験に伴うことが経験的に知られている現象のことを指す。ウoィトゲンシoュタインの後期の著作では、この概念は「基準」(Kriterium)(「規準」(永井訳))の概念と対比してしばしば用いられる。【訳者】」体験とその表現は、その関係がたまたま成り立つような外的な関係ではなく、外面への表現が体験を規定するものであるということ。