疑う

三三八
こうした事どもを絶対に確信することはしないで、その蓋然性は非常に高いから疑っても意味がない、とだけ言う人びとのことを想像してみよ。そういう人が私の立場にいたら、こう言うだろう。「私が月にいたという蓋然性は極度に小さい」等々。この人たちの生活はわれわれのとどう違うであろうか。火にかけた鍋の水が氷らずに沸騰する、ということも蓋然性が極めて大きいだけであり、われわれが不可能と見なすことも、厳密に言えば蓋然性がきわめて乏しいというにすぎない、と主張する人びとが現に存在する。この見解が彼らの生活になにほどの違いをもたらすであろうか。ある種のことについては他のひとよりも口数が多い、というだけのことではないか。


三三九
駅に友人を迎えに行くのに、汽車の時刻表を調べて定刻に出向くだけでは済まず、こんな工合に言うひとのことを想像せよ。「私は汽車が本当に到着するとは信じないのだが、それでも駅に行くのだ」と。彼は普通の人間がするのと全く同じことをするのだが、疑惑・不機嫌などがそれに伴うのである。


だからそれは無意味だ、そんなことをするのははしたない、というわけではない。
そういうことすら言えない(言わない、言う状況にならない)、問題として浮上しない、ということではないか。