日記

知っている人が死んだという知らせを聞き、そのことについて考える、ということがあります。その人は死んでしまい、もうその人は怒ることも恥ずかしがることもできない、とはどういうことか。
よく、今死ぬわけには行かない、家に帰って、アイドル生写真を整理して(処分して)からでないと死ねない、というようなことが言われますが、死んでしまえば、部屋にアイドル生写真が大量にあることを家族や知り合いに発見されて恥ずかしい思いをする自分はもう存在しないわけですから、死んだ後の恥のことを心配する必要はないはずです。しかしそういうことにはなりません。死んだ後には恥ずかしがる主体は存在しなくても、死んだ後のことを全く考えずに行動することは難しいです。
それはなぜかというと、死んだ後には恥ずかしく思うことはできなくても、死んだ後家族や知り合いにアイドル生写真を見られることを想像しているのは今生きている私だから、ではないかと思います。死んでしまえば恥ずかしがることはできませんが、死んだ後のことを想像したり、死んだ後のことを想像してそれは恥ずかしいと想像するのは、今生きている私であり、今生きている私が、これから自分が恥ずかしい評価を受けることを想像して恥ずかしく思わないはずがないからです。
という考えはどこかおかしくないか、と思えたので考えようと思います。まず、上のような考えをしてしまうと、死のこと、死んだ後のことを考えること一般が不可能になってしまうのではないか、と思います。もしそうだとすると、死のことについて考えるということは、考えようとしていることを考えられていないことになるのか。そのときはいったい何を考えていることになるのか。死のことを考えることが不可能ではないとするなら、どのように考えれば可能であると言えるのか。などという問題について少し考えようと思います。思ってすみません……。