日記

定理二三
自分の憎悪するものが悲しみに動揺するのを想像する人は、みずから喜ぶであろう。もし反対にその同じものが喜びに動かされるのを想像する人は、悲しみにつつまれるであろう。また、この二つの感情は、それに対立する感情が自分の憎悪するものの中で大きくあるいは小さくなるにしたがって、より大きくもなり、またより小さくもあるであろう。


証明
憎まれているものは、悲しみに動かされているかぎりにおいて否定されているのである。しかも、[この部の定理一一の注解により]それがより大きな悲しみに動かされれば、それだけ否定の度合いも大きくなる。したがって、[この部の定理二〇により]自分の憎悪するものが悲しみに動かされているのを想像する人は、反対に喜びに動かされるであろう。たた憎まれているものがより大きな悲しみに動かされているのを想像すればするだけ、喜びの度合いはより大きくなる。このことが第一点であった。
次に、喜びは[この部の定理一一の同じ注解により]喜びに動かされるものの存在を定立する。そして喜びがより大きいと感じられれば、それだけますます喜びに動かされるものの存在を強く定立する。もし自分の憎悪するものが喜びに動揺するのを想像するならば、この想像によって[この部の定理一三による]、自分自身の努力を抑えることになるであろう(その人自身の努力を阻害するであろう(岩波文庫 畠中訳)(=その人自身の生を妨害するであろう(zhqh言い換え)))。言い換えれば、[この部の定理一一の注解により]憎んでいる人は悲しみに動かされるであろう云々。かくてこの定理は証明された。


注解
このような喜びはけっして純粋なものではない(この喜びはあまり基礎の固いものでなく(岩波文庫 畠中訳))。したがってこのよろこびは、心の内的な争いなしには存在しえない。なぜなら、[やがてこの部の定理二七で明らかにするように]自分の同類が悲しみに動かされるのを想像するだけで、人は悲しみにつつまれるにちがいない(からである(zhqh補足))。また、もしその同類が喜びに動かされるのを想像するならば、反対に、喜びを感ずるにちがいない(からである(zhqh補足))。


『エzチカ』 第三部 感情の起源および本性について(「世z界の名著 スzピノザ」)

岩波文庫の訳のほうがわかりやすかったのですが中公の抜き書きしたあとなのでもう抜き書きしない)
『エzチカ』は、「幾何学的秩序によって証明された」ものであることに注意する必要があります。ここには、道徳的、あるいはそれに対する批判としての功利的、な観点以前のことしか書かれていない。


怒りが、それ単独で自分に対して不快である、という点については、(私はまだ)それがどのような不快なのかわかりにくいのですが、怒りが避けられるべきものである理由は、不快であるという理由よりも、もっと大きくてわかりやすい理由があります。それは、自分が怒っているところを人に見られると恥ずかしい、という理由と、怒りの対象が人である場合、怒りを表明してしまったために、その人との関係が敵対関係として固定してしまい何かとやりにくくなる、というものです。自分にとって不快であるという点での怒りは、怒り感情だけが問題となっていますが、対人関係で問題となる怒りは、怒りそのものではなく怒りの表明が問題となっています。怒りはその性質上、わざわざ表明することにより自分の外に影響を与えようとする行為、もう少し進んで言えば、怒ることにより怒り対象である人を、怒り主体を怒らせた状態から変化させようとする行為ですから、怒りにとって表明は当然の帰結となります。怒ったがそれを表明しないでいられるような怒りはあまりありません。怒りは、表明できるのなら表明され、表明できなければ、表明以外の方向に向かいます。向かうと思われます。