書き直し日記

なぜ、怒った状態にあることが、最終的な落としどころとはならずに、安らいだり、やさしい気持ちになったりすることだけが、落ち着きどころとなるのか、が不思議だ、と思っていたのですが、今ぼんやり考えていてわかったような気がしました。わかってしまえば(わかった気になってしまえば)、なぜわからなかったのかが不思議に思えるほど、問題だったことは単純でわかりやすい話だった、思うことがよくあります。これはよくある。
怒った状態になると、よーし怒った! じゃあ寝るか、とはなりません。怒った状態は、そのままにしておけない状態、です。もしかすると、そのままにしておけるような怒った状態があるかもしれません。しかし大抵は、怒っているときは、その怒り状態のなかに安らいではいられず、その怒り状態から脱したい気持ちになっています。怒りという概念にとって、その状態から移行したいかどうかは本質ではありませんから、その状態のなかにいつづけたいような種類の怒りも考えることは可能です。ですから今の話は、経験的な傾向性の話です。私が感じた怒りは、そのなかに安らいでいられるようなものではない、ことが多かった、だけの話です。だからあまり確かな話ではなく、そうかもしれないし、そうでないかもしれない程度の話です。
前置きはこれくらいにして結論を書きますと、結論ではなく今ぼんやりしていて思いついただけのことですが、つまり、怒りというのは、その状態からぜひとも脱したい状態なのであり、だから、怒り状態とは、不快な状態と同じなのではないか、ということです。怒り=不快です。不快な状態から脱したいのはよくわかるし、不快な状態の中で安らぐことなんてできないし、いろいろあって最後に不快な状態になって、やれやれめでたしめでたし、とはならず、不快な状態から脱するための話があとに続かなければならないわけです。怒ることは、めでたしめでたしの状態ではなく、何とかすべき中間点であり、今はこの状態になってしまったが、すぐに安らぎへと移らなければならないような移行状態に過ぎない、と私は見なすわけです。
ここまで書いて、これはただの言い換えではないか、と思いました……。これは、何か、世の中のこと、自分のこと、についての新しい知識を得た、新しい考え方を見つけた、作った、もしくは知った、のではなく、怒りという言葉は不快の意味も含んでいるということがわかった、それだけのこと、私は日本語が未熟だっただけ、なのではないか、と思いました。思ってすみません……。
そうだとしてもとにかく、怒りはその中に居続けられない性質を持っているのだから、ある話が、怒り→安らぎ、という流れで完結しているときは、なんかおかしいのではないか、と思えるわけです。怒りには立ち止まっていられず安らぎに移行したくなる(傾向が私(人一般)にはある)、と考えているのだから、怒り→安らぎ、という流れで完結しているとなんかおかしいと思うのは矛盾ではないかとなるかもしれないが、そういうわけではない。
怒りについて言えば、「ここではむしろ怒らなければならない。怒るべきだ」と判断できる場面を考えることもできます。しかしその際も、そのまま怒り続けていればよいわけではなく、怒らせる原因を取り除くことが推奨されていると考えるべきでしょう。怒っても良い場合はあるが、それは必要悪であり、怒り自体、怒りに至らせるような状況、は無いほうが良いことは、間違いなさそうです。
しかし本当にそうだろうか?そうではないのではないか。怒りとは移行状態ではないのではないか、怒るべき場合、怒りに至ること自体が良いとされる場合もあるのではないか、怒りはたまたま辿り着いてしまっただけのすぐに移行すべき状態ではないのではないか、怒りが本当に不快な状態であるのなら、それはどういう種類の不快なのか、について今まで長い間考えていた(短い間ぼんやり思いをめぐらせていた)ので、これからそれら本題について考えようと思います。