暗闇の中での根拠なき跳躍がなぜかいつも同じ場所に着地することと規則の適用の正しさはいつも事後的に決定されることとの違い

今日一応『入門』眺了。
全然わからないと書いたがわかってしまえばなぜわからなかったのか思い出すのも難しいくらいわかりやすい話に思えるし、考えが難しいからわからなかったのではなく単に文が読めなかったからわからなかったように思えて嫌になる。まだわからないところもある。中期以降はたくさんある。前にはわかっていたと思っていたところが今回わからなくなっていたところもある。前回から一週間もかかったのは長すぎた。速く読んで流れをつかむというのはとても大事で、ゆっくり読んで個々の細かい議論は理解できた気になっていても、それを脈絡の中で考えると急に難しくなる。なぜ今これが問題となってくるのかがよくわからないし、そこがわからないと、後で出てくる考えの意義がなかなかつかめない。以前少し読んだ『確実』はとても読みやすく退屈だった。そういう意味で『入門』における「文法」の位置づけは重要で、文法周辺が一番ややこしい。(後期以降がもっと整理されたら、後期が一番ややこしくなるのかもしれないけど。)


『入門』メモ
規則の従い方の一致は盲目的一致なのだとしても、それは間違っていてこっちは正しい、と言うことに意義がある場合は言えるしその正しさについて主張可能、言及可能となる。だから、2ずつ足して行けと言われて1000以降に1004、1008としてしまう人がいた場合、その人に対して、そうするのではなくて1000以降は1002、1004と続けるのだよ、同じように続けるとはこういうことだよ、と言うことができる。正当化はできないかもしれないが、自分の従っている規則、1004、1008とするのではなく1002、1004とするのだということについて説明することはできる。1004、1008としてしまう人も、私が1002、1004としてしまうことについて、そうではなくこうするのだと訂正することが可能となる(違っているから。違いがなければ言う必要(余地)はない)。異なる例が提示された時点、違いが表面化した時点で、それは言及可能になる。なぜか一致してしまうことが、明示的な規則として説明可能になる。そのような説明を可能にしていること、現れた違い以外のほとんどが同じように一致しているからこそ、一致していたり一致していなかったりすることが可能となる。そういう根本的な一致がある。このような一致は、原理的に、説明化、規則化できない。このような一致が必ず起こる(規則化)と言うこともできない。原理的に偶然の一致なのである。いや違う、この一致には、こういう理由が考えられるのではないか、少なくとも理由が想定可能ではないか、と言うとき、そのように言うことを可能にしている、そのような想定が可能となっている一致がある(一致不一致の想定が可能となるには他の多くの部分で一致していなければならない)ことを見落としている。そのようなレベルでの一致問題となっている。

自分が自信満々で続けていることも感じずに、998、1000、1002、1004、と続けていったとき、先生とクラス全員から、それは間違っている、1000、1004、1008、としないとだめじゃないか、と指摘されるような状況(「根源的にカフカ的」な状況)(がなぜか起きないこと・どちらかを完全に正当化できないこと)と、規則の適用の正しさはいつも事後的に決定されるということ、とは異なる。

規則の適用の正しさが後で決まる、ということは、天才的科学者の異様な学説や、天才的芸人の常軌を逸したギャグが、(歴史の審判の後)共同体に受け入れられて初めて、天才的業績であり天才的芸であることが決まる(初めてわかる、ではない)、といったことである。これはむしろ、新しい規則が作られた、ということであり、そういうときにはよく起こる、ありふれた状況である(根源的にカフカ的な状況とは言えない)。これを、規則の従い方の(根源的一致と、根源的なカフカ的不一致)問題にまで拡張することはできない。規則への従い方の一致があるからこそ、新しい規則や、規則の変化を認識することができる。規則への従い方の正しさは、後で決まるのではなく、ずっと一致していたことが、後になってわかる、という現れ方をする。

1004、1008としてしまう人が、1002、1004としてしまう私を訂正できるのなら、もしくは、違うということが意識され、違いに言及できるのなら、規則への従い方が一致していなかったのではなく、違う規則に対して同じように従っていたことになる。意識化可能、言及可能、規則化可能ということは、そういうことではないか。2ずつ足していくということとは、1002、1004と続けていくことであり、1004、1008とすることではない、と意識的に言及するとき、従い方が違うのではなく、異なる規則に同じように従っていた、ことになる。このときの異なる規則とは、意識化可能規則、言及可能規則であり、つまり、公的規則である。私的言語、私的規則(規則に私的に従うこと)が不可能なのは、このような筋から説明できる。言語や規則として言及されたり意識されてしまう時点で、そういう言語、そういう規則、に従っている、とされざるをえない。このようなレベルで規則への従い方の一致を問題にすると、規則への違う従い方は、想像することができない。想像できれば、その、規則への異なった従い方は、異なる規則(公的規則)への同じ従い方へ、読み替えざるを得なくなる。