幾何学

いろいろ思い出して落ち込む。どんな形であれgiveの問題なのかもしれない。
giveにも限界があるから、その配分ということなのだろうか……。

  1. 無関心的無関心(瞬間的関心)
  2. 積極的無関心
  3. 記憶する意志のない状態(無関心的無関心=瞬間的関心)
  4. 消極的関心
    1. 消極的好意
    2. 消極的敵意
  5. 積極的関心
    1. 積極的好意
    2. 積極的敵意
      1. 積極的攻撃
  6. 積極的関心の意識的持続
    1. 積極的関心の意識的持続=好意

相手を特定の個人と考える場合、積極的関心の意識的持続好意、まで来て初めて、好意が相手にとっての(表面的)快だけではない可能性が出てくる、ことになるでしょうか。それ以前は相手にとって(表面的)快ではないgiveは成立しない。だから怒りの表明は、配分の問題など他との関係のことを考慮に入れなければ、やめたほうがいい(心理的負担が大きい)、ということだろうか。自分の怒り行為はともかく、相手の怒り行為は、瞬間的関心であれ、消極的関心であれ、積極的攻撃(アンチ活動)であれ、自分にとって考えるべき物であるとは思います。そういう意味では、自分の怒り行為も、考えるべきもの、まず存在を認めるべきもの(存在するのだから無いことにはできませんが)ではありますが、あってもいいと思える怒りは、特殊な状況を除けば、(まじめに長時間考えた場合にはともかく)感情的にはほとんど無く、怒らないにこしたことはないとなんとなく思います。現実には、悪態をつきつつ目を覚まし寝るまで怒りっぱなしです。
(無関心的)怒り行為は、感情に突き動かされた突発的な行為であることはほとんどなくて、冷静に考えて怒りを表明するべきだと判断した結果による場合が多いので、怒りが心理的負担になり、怒らないようにしたいのなら、怒りを抑えると考えるのではなくて、怒りが出てくるような考え方を変えるべき、というのが今までの流れです。
こういうことを考えていると、結局『エzチカ』を実用書として読む意味が出てくるということかなあという気になってくる。数学の教育課程のように、精神的にも教育課程というのが機械的に組めるんじゃないかと思う。精神的というより心理技術的か。


夜、以前よく行っていた駅前のスーパーで食べるものを買う。大変おいしくて感動した。そうこれ、これが食べたかったんよ……、と思った。今の家の近くにあるスーパーほどのものはいままで経験したことがない。これが、なんでもないようなことが、というやつだろうか。
今日4月16日の「ベリキュー!」第13回はみんな楽しそうに笑っていて楽しかった。落ち込んだ気分が一気になくなる。