文法

  • 写像(前期)→検証(学z団)→文法(中期)

ものごとの本質(「〜とは何であるか」という問いへの答え)を決めるのは文法であるから、実在そのものの本質と見えるものは、実は文法が映し出す影にすぎない。たとえば「黄色と青色は同時に同じ場所を占めることができない」という真理は、物理的あるいは心理的事実を語るものでもなければ、世界そのものの本質構造を語るものでもなく、色に関するわれわれの文法を示すもの、つまり文法的真理なのである。
そんなことはない、文法などとは無関係に、現に黄色くかつ青い表面がありえないという事実があるではないか――と反論したくなる人は、その反論に使われる「黄色」や「青色」や「表面」という語もまた、文法に従って使われざるをえないことを忘れている。つまり根拠づけられるはずの文法に依拠せずには、根拠づけるはずの事実を引証することさえできないのである。それゆえ、われわれは文法の外に出ることができないのだ。

『入門』P118

ここはよくわかるように思う。「多摩川の上流に雨が降ったという事実は『多摩川の上流に雨が降った』という文章で表現できる」とは言えない、というところに似ています。問題は、このあと、「規準と兆候」「志向」「予期・意図・思念」「言語ゲzーム」について言及されるP120からP130が、個々の議論は理解できなくもないのですが、読んだあとに流れを思い出そうとしても思い出せないくらい(私には)密度が高いということです。「言語ゲzーム」は、文に意味を与えていたり何かの根拠や原因になるものではなく、それだけでは死んでいる文に思念が意味を吹き込んでいる、とか、背後から動機づけたり意味の根拠になっているものがある、という考えを断ち切るものとして導入された、ということをこうした流れから理解するにはまだかかりそうです。