規則に従う、と、法則に従う

規則があり、それにどのように従うかは、規則では決定できない、という問題と、物の動きが物理法則に従って動くのはなぜか、という問題は、まったく別の問題であるように思える。「物の動きは自然現象であり、それに対し、規則への従い方は自分もしくは他人の<心の問題>である。通常、両者が同じ原理によって動作しているとは考えない。(d:id:vjrc:20070721)」しかし、「因果関係は、世界の側の出来事ではなく私たちの態度を世界に投影した概念である、とも考える事ができ、そうであるとすれば、物の動きと規則への従い方との類似を考えることにも意味があるのではないか。」
「因果関係は、世界の側の出来事ではなく私たちの態度を世界に投影した概念である」ということはたとえば以下のようなことだろうか。

人間は何のために思考するのか。それはどんな役に立つのか。なぜ人はボイラーの壁の強度を、偶然に、あるいは気まぐれにまかせないで、計算するのか。計算して作られたボイラーはそうしばしば破裂するものではないということは、たんに経験上の事実にすぎない。しかし、まえに火傷したことのある人は火のなかに決して手をつっこみはしないだろうが、それと同様、ボイラーを計算もしないで作ることなど決してすまい。ところでわれわれとしては原因ということには関心がないのであるから、次のように言える。事実として人間とは思考するものなのであって、例えばボイラーを建設するときにはかくかくの仕方でやってゆくのだ、と。

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人間は、考えることに実効があったから、時おり考えるのである。

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物が物理法則のとおりに動くかどうかは、物理法則からは決定できない。物理法則がいつでも成り立つとは限らないからだ。物理法則には、この物理法則がどのような場合に成り立つ法則なのかは書かれている。しかし、それをも含んだ物理法則全体が、いつ成り立つのかはわからない。だからといって、今目の前にある本が浮き上がったとしても、重力の法則に変化が起こったとは、通常は考えない。しかし絶対に重力の法則に変化が起こらないと考えるわけでは決してない。このような状況がある。
「「0、2、4、6」この後に同じように続けて数を書いていきなさい」と言われた人が、「……、996、998、1000、1004、1008、……」のように、1000を超えてからは「「+4」(と思われるような操作)」をしたとする。それに対して、「そうじゃない。1000を超えてからも、同じように、続けてやるんだ。」と言っても、「私は同じように続けてやっているのですが……」と言われたとする。それに対して決定的に有効な反論を言うことはできない。だからといって、1000を超えてからは「「+4」(と思われるような操作)」をするような、普通の人が、存在するとはあまり思えない。しかし絶対いないと言い切れるわけではない。
このふたつのことは、かたちは似ているが、まったく別のことである。「かたちが似ている」とはどういうことだろうか。このふたつのことには、どのような関係があるのだろうか。