いままでがこうだったからこれからもこうである、とは言えない、という考え

たしかに、「いままでがこうだったからこれからもこうである、とは言えない」という考え方には納得できる部分がある。もしかしたら明日は違うかもしれない、ということは、容易に考えることができる。昨日までのようにはならない、という可能性は、ある。
だからといって、火の中に手をつっこむのか、というと、絶対につっこまない。“これが「確実」ということである”。

過去に関する陳述によっては、将来何かが起こることに確信がもてない、と言うひとを、わたくしは理解しないであろう。ひとはそのようなひとにこう問うことができよう。いったいあなたはどういうことを聞きたいのか、いったいあなたはどういうことを「確信」と呼ぶのか、どのような種類の確信をあなたは期待しているのか、――もしこれが根拠でないのなら、いったいどういうことが根拠なのか、と。――それは根拠ではない、と言うのなら、われわれの仮定には現に根拠がある、とわれわれが正当に言えるような場合がどういうものでなくてはならないのか、あなたは述べることができるのでなくてはならない。

毎朝太陽は東の空に昇る。これは絶対確実な法則と言えるだろうか。絶対確実とは言えないにしても、これを法則と考えることはできるだろうか。おそらく、天動説があたりまえだったような世界に生きていた人なら、絶対確実な法則と考えていた、のではないだろうか。しかし、いまの私たちは、毎朝太陽が東の空に昇ることは絶対確実な法則でないことを「知っている」。たとえば巨大な彗星が地球や太陽にぶつかり、地球や太陽の軌道が変われば、おそらく太陽は毎朝東の空に昇らなくなるだろう。だから、毎朝太陽は東の空に昇る、という現象は、いままでがこうだったからこれからもこうである、とは言えない現象であり、普遍的な法則ではない。
と言えるだろうか、という問題について考えたい。


まず、上のようなことを考えていると、「普遍的な法則」に対して、「法則」という語は、以前考えていたよりも、かなりかるく用いることができそうに思えた。まさしく、暫定的なとりあえずのものとして扱うことができそうだ。この語感からすれば、太陽は毎朝東の空に昇る、という現象は、じゅうぶん法則と言えるのではないか、と感じられる。となると、そのような法則を支える確実性は、それほど強いものでなくてもよいということになり(感じられ)、法則の根拠としてさらに、斉一性の原理が必要となるとは、あまり感じられない。かといって、法則は経験的なものなのだから、普遍的であるはずがなく、普遍的な法則、というのは、もともと考えられない。となると、法則が法則であるのは、まっとうなことで、そこには何の疑問もない、ということになるのか。


天動説があたりまえだったような世界に生きていた人は、毎朝太陽は東の空に昇る、ということを絶対確実な法則と考えていた、かもしれないが、今はそうでないことがわかっているから、経験的な反証が得られたことがなく絶対確実だと考えられることでも将来は確実でなくなる可能性がある、という考え方には少し弱いところがある。今はそうでないことがわかっているからこそ、確実ではないと自信を持って言えるのであって、もし私たちの認識が天動説があたりまえだったような時代のままなら、今でも毎朝太陽は東の空に昇るということは絶対確実であったはずだ。毎朝太陽は東の空に昇るということが確実でないとわかった段階で、「いままではこうだった」とは考えられなくなったのだから、「いままではこうだった」ことによる正当化を受けることはできないのであり、このことは、「いままではこうだった」による正当化がさらに根拠付けを必要とする理由とはならない。

一番最後のところで人はえてして次のように言いがちである。すなわち「ものごとは、いつもそうであったように今もそうであるということこそ、きわめて本当らしいところだ」とか、あるいはこれと似たことである。これは理由づけの最初のところを隠してしまう言いまわしにほかならない。(世界の始まりについて説明するものとしての創造主。)


天動説的考え方、どんな(地上的な)天変地異が起ころうが天体の運行は変わらない、という考え方を延長すれば、たとえば巨大な彗星が太陽や地球に衝突したとしても、毎朝東の空に太陽が昇る、という状況は変わらない、ということになる。この考え方を採用すると、いままでは説明できていた宇宙の様々な現象を新たな説明原理で説明しなくてはならなくなるが、考えることがそもそも不可能というわけではない。動かないような地球、地球の周りを回っているような太陽、どんな天変地異が起ころうが運行が変わらないような天体、に対応する、毎朝東の空に太陽が昇る、という法則は、いま私たちが考えるような、毎朝東の空に太陽が昇る、という現象とは違う現象についての法則であるように思える。
見えるものは同じかもしれないが、考えられている現象(?)は異なる、ということは、ウサギアヒル絵が、ウサギに見えたり、アヒルに見えたりする、という例の問題と同じ、ということだろうか。