「信念」の基礎、斉一性による理由付けは最初の理由付けを隠す

ウィトゲンシュタイン『哲学的文法1』(大修館書店 全集3)
P144

六七 人間は何のために思考するのか。それはどんな役に立つのか。なぜ人はボイラーの壁の強度を、偶然に、あるいは気まぐれにまかせないで、計算するのか。計算して作られたボイラーはそうしばしば破裂するものではないということは、たんに経験上の事実にすぎない。しかし、まえに火傷したことのある人は火のなかに決して手をつっこみはしないだろうが、それと同様、ボイラーを計算もしないで作ることなど決してすまい。ところでわれわれとしては原因ということには関心がないのであるから、次のように言える。事実として人間とは思考するものなのであって、例えばボイラーを建設するときにはかくかくの仕方でやってゆくのだ、と。――ところでそうやって作られたボイラーは破裂することはありえないのか。いや、もちろんそれはありうる。


 われわれは行動にうつる前に、その行動について考慮する。その像をえがいてみる。だが何のために。「思考実験」など存在するものではない。
 われわれは何かを予想し、その予想にあわせて行動する。予想は実現するときまっているか。そうではない。では、なぜわれわれは予想にしたがって行動するのか。われわれはそうするように駆り立てられるからである。それは自動車がくれば身を避けるように駆り立てられ、疲れたときは腰をおろすように、とげの上に座ったら飛びあがるように駆り立てられるのと同様である。


 出来事の同型性[斉一性]という考えがどのようなことがらであるかは、おそらく、われわれが予想される事件に対して恐れを感ずる場合に、もっとも明瞭になる。私が火傷をしたのは過去におけることに過ぎないのに、私が火のなかに手をつっこむ気になることは、まずありえまい。
 火は私に火傷をおわせるだろうという信念は、火は私に火傷をおわせるだろうという恐れと、同じ性質のものである。
 ここで私は「それは確実だ」ということが何を意味しているかもわかる。


 もし人が私を火の中に引き入れようとしたら、私は抵抗し、決して喜んでついてゆきはしないだろう。つまり私は「火傷するよ」と叫び、決して「それはたぶん快適なことだろう」などとは言うまい。


 「とにかく君も、ボイラーを作るのに計算しなかったら破裂事故が多くなるだろう、と信じているにちがいない。」――その通り、私はそう信ずる。しかし、それはどういうことなのか。破裂事故が事実上少なくなるということが、そこから帰結するのか。――この信念の基礎はいったい何なのか。


六八 私が書きものをしているこの家が、これから半時間のうちに倒壊することはないだろう、と私は想定している。――私がそのことを想定するのは、いつなのか。その時間中ずっとつづけてなのか。そして、この想定するということは、どんなはたらきなのか。
 ここで問題にされていることが、一つの心理的な姿勢である場合もあるだろうし、また、ある特定の思考内容を考え表現することである場合もあろう。この後のほうの場合であるが、私が何かある文を語り、その文はまたそれで、ある考慮(すなわち一連の記号操作)における一項をなしている。ところで人は言う。君はそのことを想定する理由をもっているはずだ。そうでなければその想定は支えをもたず、無価値だ、と。――(ここで次のことを連想してもよい。われわれは地球の上に乗っているが、地球はもう何かの上に乗っているのではない。子供たちは、地球が支えられていなければ、それは落っこちてしまうはずだと思う。)さて、その想定に対する理由を私もいろいろ持ってはいる。例えば、この家はすでに何年ものあいだ立っていた。かといって、もう倒れやすくなっているかもしれないほど長いあいだではない。等々である。――ある想定の理由とされるそのものは、はじめから提示されることができ、それが記号操作を、すなわち一つの項から他の項への移行の体系を、規定する。ところが今、この記号操作の理由を求められると、われわれはそれがありあわせていないことがわかる。
 ではその記号操作は、われわれが恣意的に想定したものなのか。そうでないことは、火に対する恐れや、近づいてくる怒りくるった男に対する恐れが、恣意的に想定されたものではないのと同様である。
 「われわれがそれに従ってふるまったり操作したりするところの文法の諸規則、それはたしかに決して恣意的なものではない。」――よかろう。では、いったいなぜ人間は、彼が考えるその仕方で考えるのか。なぜ人間はこうした思考行動を経てやっていくのか。(ここで問われているのは、もちろん、理由であって原因ではない。)そこで記号操作におけるいろんな理由が持ち出されるわけだが、一番最後のところで人はえてして次のように言いがちである。すなわち「ものごとは、いつもそうであったように今もそうであるということこそ、きわめて本当らしいところだ」とか、あるいはこれと似たことである。これは理由づけの最初のところを隠してしまう言いまわしにほかならない。(世界の始まりについて説明するものとしての創造主。)


 見通すのがかくも困難なことがらではあるが、以下のように表現されうる。われわれが真偽のゲームの領域のなかにとどまっているかぎりにおいては、文法が変わることは、ただわれわれをその種のゲームのある一つから別の一つへと導くだけのことであって、真なるものから偽なるものへと導くことではありえない。そして他方、われわれがこれらのゲームの領域の外に出る場合には、われわれはそれをもはや「言語」とか「文法」とはよばないのであって、現実との矛盾にたちいることはそこでもないのである