仮説の本質

ウィトゲンシュタイン『哲学的文法1』(大修館書店 全集3)
P305

 仮説というものは、明らかに、像によって説明されるだろう。例えば、「ここに本がある」という仮説を、その本の平面図、正面図、それにさまざまな断面図を示す画像によって、説明することができるだろう。


 そのような描写は、一つの法則を与えるのである。ちょうど曲線の方程式が法則をあたえ、それにしたがって、横座標のいろんな点でその曲線を切ったときの縦座標の値が見いだせるようなものである。
 仮説に関しいくつかの場合においてえられる検証は、曲線に関しそうした切断が実際におこなわれることに対応しているわけである。
 われわれの経験において、いくつかの点が直線をなしてあたえられる場合、これらの経験は一つの直線のいろんな場合の見え方だという文は、一つの仮説である。
 仮説は、この実在を描写する一つの仕方である。それというのも、新しい経験がその仮説に合致するかもしれないし、合致せずに、仮説の変更を必要とさせるかもしれないからである。


 例えば、球が自分の目からある一定の距離のところにあるという文を、座標系と球の方程式とで表現する場合、この記述は、目によってなされる検証の記述よりも大きな多様性を持っている。この多様性は、一つの検証に対応するのではなく、いくつもの検証がしたがう法則に対応する。


 仮説とは、いろんな文を作るための法則である。
 また、仮説とはいろんな予想を立てるための法則である、とも言えよう。
 文というものは、いわば、ひとつの仮説をある特定の場所で切ったものである。


 二つの仮定があって、その一方がなりたつことを確証するすべての可能な経験は、他方をも確証する場合、私の原理によれば、両者は意味に関して同一でなければならない。その場には、経験によって両者のどちらかに決定することは考えられえないからである。


 ある線が、偏差をともなった直線として表される。その線の方程式は助変数をふくみ、それの動きが直線からの偏差を実現することになっている。この偏差が「わずか」であるということは、本質的なことではない。当の線がもう直線に似てはみえないほど偏差が大きくてもかまわない。「偏差をともなった直線」というのは、ただ記述の一形式なのである。この形式をとることによって、私は、しようと思えば、記述のある特定の部分を除外ないし無視することが容易になる。(「例外をともなった規則」という形式。)


 歯が痛くなることは確実だ、とはどういうことか。(人がそのことで確実でありえないのならば、文法は、「確実」という語をこの関連で使うことを許容しない。)
 「確実である」という言葉の文法。


「あそこに椅子が見える、と私が言えば、それは、私が確実に知っているより以上のことを言うことになるのだ」と人は言う。そしてその際たいてい、「だが一つのことは、私は確実に知っている」と考えられている。ところが、そのことが何であるかを言おうとすると、人はある困惑におちいる。
 「私に褐色のものが見える。このことは確実だ。」元来それで何が言われているのかといえば、褐色の色が見えており、それは他の兆候から推定されたものではない、ということである。だからこそ人は単純に「褐色のものが見える」とも言う。


 「この望遠鏡をのぞき、君に見えるものを描け」と言われて私が描くものは、文としての表現であって、仮説としてのものではない。


 人の言うところでは、私が「ここに椅子がある」と言えば、私が知覚する物の記述よりも「以上のもの」が考えられている。このことは、ただ、見えたものの記述が正しくても、その文が真でなければならぬわけではない、ということでしかありえない。では、どんな事情があれば、その文が真でなかったと私は言うことになるか。明らかにそれは、その文に一緒に含まれていた他のいろんな文のあるものが、真でない場合だ。しかし、事は、あたかもその最初の文が論理積であったかのような、そんなことではないのである。


 すべて仮説というものにとって最適の比喩、そしてそれ自身ひとつの例でもあるが、それは、空間のいろんな点からの見え方が一定の規則に従って構成されているところの物体である。


 科学的研究(例えば実験物理学)における認識のおこなわれ方は、もちろん、実験室の外での生活における認識のおこなわれ方ではない。しかし、似たものではあり、ほかのいろんな認識過程ともども、後者のことを明らかにしうる。