色の無い物について

9月20日の日記に、色が見える仕組み自体には色が無い、と書きました。そこで、色が見えることの仕組みについて少し(googleで5秒)調べてみました。

以上のようなサイトを見つけたのでなんとなく読みました。これによると、原子や分子が何色かに見える、ということは、あるかもしれない、と思いました。光の吸収は、原子や分子の中の電子の状態が関係しているようなので、原子や分子自体は、何色かに見えるということは、ありそうな感じがします。しかし、原子核や、電子については、何色かに見える、ということはなさそうです。色が見える仕組みを考えれば当然ですが、そうでなくても、原子核や電子については、そもそも、物体としての大きさを持ち空間に一定の位置を占めて運動している、と言えるかどうかが問題な感じですから、それに色があるかどうか、ということを問題にすることは無意味な感じがします。
のようなことを思っていたのですが、

を見ると、分子の色についても、なんだか微妙な感じもします。はっきりとはわかりません。勉強不足、知識不足です。


素粒子(または、原子や分子などの極小のもの)の問題については今は考えないとして、では、色が無い物体、というものは存在可能なのだろうか、色が無い物体は、思考可能なものだろうか、ということについて少し考えてみます。
考えてみますと書きはしましたが、いきなり結論を書くと、存在不可能、思考不可能、ではないか、と思います。大きさがあって空間に一定の位置を占めている以上、その表面には何らかの色が(透明含めて)なければならない、と考えざるを得ない、のではないかと思います。考えざるを得ないから色がある、のだったら、考えられないかもしれないけれど色が無い物体もある、ということになることになってしまうのかもしれませんが、そういう事ではなくて、論理的に不可能、ということになるかと思います。もしかしたらあるかもしれない、と考えることすらナンセンスになるような、そういう性質です。たとえば、目の前にどういう物体を置かれたとしても、その物体には色が見えざるを得ない、ということです。(繰り返しますが、透明とか鏡とか光学迷彩であるとか、そういう物を含めた意味での色です。)どういうものを見たら、それには色が無いと言えるかがわからない、どういう物を見れば(どういう物であれば)、色が無い物であると言えるのかが、そもそもわからない、ということです。
また、暗闇では色がわかりませんが、可視光線下で見れば色はあるはずです。暗闇では色がわからない、という言い方の中に既に、可視光線下では色が見える、ということが含まれています。


という考えはあやしい。人間が見えるかどうかにこだわりすぎでしょうか。人間が見えるかどうかにかかわりなく物体として無色物というものが想定可能でしょうか。または、完全に透明な物体(光学迷彩的な物体)は十分想定可能で、それは、「そういう色だ」というのはちょっと苦しいのではないか? 完全透明物体こそ、色が無い物体、と呼ぶべきではないか、と思えます。
完全透明物体は想定可能だけれど、それが想定可能な理由は、目では全くとらえることができなくても、触れば、そこに何かがあることがわかり、空間に一定の位置を占めており大きさがある物だ、ということが確認できる、からだと思われます。空間に一定の位置を占めており、大きさがあるけれども、物体があるとは判断しない、ことはあり得ない、と思われます。物体=空間に位置を占めるもの、だろうからです。となると、視覚と触覚(空間的位置)を逆にして考えてみればどうでしょうか。つまり、何らかの色が見えるけれども、触ろうとしても触れられない、その色が見える位置に空間的場所を占めるものがあることを確認できない物体を想定することが可能か、を考えてみるということです。
赤い色がそこに見えるけれども、手を伸ばしてもみても、何も手に触れない、という場合があるとします。その場合、私は、既に気体というものの存在を知っているので、赤い色をした気体がそこにあるのではないか、と思うことができます。気体のような、蝕知が困難な物体ではなく、単に何もない、けれど色が見える、そういう物体を考えることができるか、となると、これは不可能になるのではないでしょうか。つまり、色が見えるなら、そこには何かがあらざるを得ない、色が見えるけれどそこには何もない、大きさが無く空間的に位置を占めないけれど何かがある(けれど色はある)、という状況は、論理的に想定不可能、ということになるのではないでしょうか。
(このことは、「色が無い物体は想定不可能」について考えることと、どのような点で異なるでしょうか。)


だから、「幽霊が見える」という人は、一体何を見ているのかを、まず明らかにする必要がある、ことになるのではないか?
と書きましたが、「幽霊」のようなもの、目に見えるが、空間的な存在ではないもの、を考えることは可能です。想定不可能とまでは言えません。


いや、そうだろうか? どんなものを見ても、そこに何かを見たら、そこには何かがあらざるを得ない、のではないだろうか? そこに何かが見えたら、そこに何か物理的な存在があると考えるしかない、のではないか? 例えば、そこに何かが見えるから、何があるのかと思って、手を伸ばしてみる、機械で測定する、などをする。あらゆる手段を使用しても、そこに何かが見えることについて物理的な裏づけが取れないとしても、測定方法がわからないか、今のところは測定ができていないだけであって、必ず物理的な存在があるのだ、と考える以外ない、のではないか? だから「幽霊」は、「宇宙の果ての外側」と同じように、思考不可能な存在なのではないか? その言葉では、言おうとしていることが言えていない、ことになるのではないか?