観測から認識へ、認識から観測へ(8/31書き換え版)

太陽の問題は、太陽が昇るように見えるか地平線が下の方に向かって動くように見えるか、という問題ではないのではないか。ガリレオケプラーにも、太陽は昇って見えるはずだ。たとえ昇って見えたとしても、そのことと、地球の運動と太陽の運動の実際は、別の話なのではないか。ガリレオケプラーにとっては地平線が沈む(ように見える)、というのは、「理論負荷性」のための主張のように思える。それくらい、太陽が昇って見えるという実感は、動かしがたい。これはただ実感にこだわっているだけの実感主義だろうか。あるいは、本当に地平線が沈んで見える実感というのもあるのだろうか。いや、やはり太陽は昇る。ガリレオケプラーは、太陽は昇るという否定しがたい実感とは全く異なることを既に見出していた、ということなのではないか。そこではもはや実感は関係ない。このことを、理論負荷性、というのだろうか。
(このことは、地動説とは、太陽が動いているのではなく地球が動いているとみなしたという単なる天動説の反転ではなく、地球や太陽は天体を構成しているいろいろな関係構造の項のひとつであるであるという構造を見出した説である、というようなことよりも、常識的観測観が全く成り立たないように感じられるという点で、驚くべきことのように思える。)


どう見ても感じても太陽は昇っているし地球は動いていない。地球が動いているとか太陽が動いていないとか言った場合の、動く、という表現の意味は、通常用いられるような「動く」の意味ではない。この「動く」は、あらゆる実感が無関係になるような、どんな観察も到達できないような意味で用いられている。シンプリキウスやティコが、「太陽は昇る」と言ったとしたら、それは、ガリレオケプラーが、「地球は動く」と言った意味と、対になるような意味で言ったのではなく、対になっているように見えて、全然異なることを言っていると考えるべきなのではないか。
空を見て、太陽や地平線のことについて言う限り、「太陽は昇る」の方が正しい。空を見て、そのことについて語っているのに、地球は動く、と言うのは間違っている。物を見たり、物を見て物が動いているとか動いていないとか言ったりする、ということにおいて、何が動いていると言うのが妥当か、何が動いていないと言うのが妥当か、ということをまともに検討する限り、空を見れば太陽は動いているし地球は動いていない、と考えるしかない、とするのが妥当なのではないか。
太陽は「動い」ておらず、地球は「動い」ている、という飛躍を経た後なら、太陽が昇って見えるという実感は、地球が動いているという認識と、整合性を保つ。太陽が昇って見えるからといって、地球が動いていない、ということにはならない。一見、実感と認識は、整合性の取れない(太陽が昇る⇔地平線が沈む)ように感じられるが、認識の飛躍の後では、問題なく整合性は取れる。ガリレオケプラーにも太陽は昇って見えるが、ガリレオケプラーは太陽が昇って見えたとしても、太陽は動き地球は動かない、とはみなさない。つまり、「太陽が昇って見えたとしても、太陽は動き地球は動かない、とはみなさない」ということは、「見ているものは同じだが解釈が違う」ということではなく、見ているものと、認識の方向が違う、と言うべきことではないか。太陽が動くという認識は、見ているものから認識へと向かう方向であり、地球が動くという認識は、認識から見ているものへ向かう、という方向になっている、ように思われる。


ウサギアヒルの絵において、ウサギとアヒルの見え方の違いは、見ているものは同じだが解釈が違うから見え方が異なる、ことによるのではない。われわれは解釈なしに、この絵を、ウサギと見たり、アヒルと見たりする。「見えに解釈が付け加わってウザギに見えたりアヒルに見えたりする」という表現において、「解釈」という言葉で意味されていることを、明確にすることはできない。私たちは端的に、この絵が「ウザギに見えたりアヒルに見えたりする」。この絵を見る直前にウサギの絵をたくさん見ていたら、この絵はウサギに見えるかもしれない。しかし、絵を見る限りウサギに見えるほうが正しい、とまでは言えない。そこは太陽とは決定的に違うのではないか。太陽の問題は、ウサギとアヒルの問題とは質的に違う問題のように思える。ウサギアヒルの絵は、見る人の傾向性や、絵の置かれた場所によって、ウサギに見えたりアヒルに見えたりする可能性を想定することが出来る。しかしそれは傾向を与えるだけであって、観測から認識へという方向性は定まっている、ように感じられる。(ちがうだろうか?) 太陽が動いているか地球が動いているかという問題は、観測と認識の方向性が異なるという点が重要になるように思える。


ウサギアヒルの絵のなかには、ウサギに見えるかアヒルに見えるか決めるものは存在しない。(存在する場合もあるだろうが。)太陽の動きの観測の中には、太陽が動くという実感しかない。太陽の動きの観測の中には太陽が動くか地球が動くか決めるものは存在しない、と言える時点で、既に認識の飛躍は終わっている。これが大事なことなのではないか?
太陽と地球の動きをウサギアヒルの絵と同じように考える考え方は、地球や太陽の動きがウサギアヒルの絵と同じように考えられるということを知った上で、それを考えられないふりをして、どちらでも考えられ得る、と言っている、ということになるのではないか。