実感の役割

ハンソン『科学的発見のパターン』P38註(P335)

「われわれの感覚的な観察が示してくれるのは、暁方に、地平線と太陽との間の距離が広がっていく、ということだけである。それだけでは、太陽が昇りつつあるのか、地平線が沈みつつあるのかは、わかりはしない」(中略)ガリレオケプラーにとっては、地平線が沈むのであり、シンプリキウスやティコにとっては、太陽が昇るのである。プライスはその違いを見逃している。

そうだろうか? われわれの感覚的な観察が示してくれるのは、太陽は昇る、ということではないか? 早朝、東の空を見て、「地平線と太陽との間の距離が広がっていく、ということだけである。それだけでは、太陽が昇りつつあるのか、地平線が沈みつつあるのかは、わかりはしない」などと思う人がいるだろうか? そういう人がいる可能性は、もちろん、ある。しかし、そういう人の言う事を信用してはならないのではないだろうか。あるいは、そういう人は、われわれと同じ感覚を持ってはいない、同じ生活に生きてはいないのではないか。どう見ても、太陽は昇る、と感じざるを得ない。これはただの”感じ”だから、明確な基準や定式化がそこにあるわけではない。太陽を見て、昇っているな以外のことを思いつかない、という傾向が私にはあるということだ。これは、兎に見えるかあひるに見えるか、という例のあの画像を、ほとんど兎に見えてなかなかあひるには見えないように修正した画像を見る、というような話と似た話だろうか。

太陽の問題は、太陽が昇るように見えるか地平線が下の方に向かって動くように見えるか、という問題ではないのではないか。ガリレオケプラーにも、太陽は昇って見えるはずだ。たとえ昇って見えたとしても、そのことと、地球の運動と太陽の運動の実際は、別の話なのではないか。ガリレオケプラーにとっては地平線が沈む(ように見える)、というのは、「理論負荷性」のための主張のように思える。それくらい、太陽が昇って見えるという実感は、動かしがたい。これはただ実感にこだわっているだけの実感主義だろうか。あるいは、本当に地平線が沈んで見える実感というのもあるのだろうか。いや、やはり太陽は昇るのであり、そのことと太陽の運動は関係ないように、<感じられる>。太陽が昇って見えるという実感は、地球が動いているという<実際>と、整合性を保つ。太陽が昇って見えるからといって、地球が動いていない証拠とはできない。これは大事なことのうちの一つだ。一見、実感と実際(理論)は、整合性の取れないこと(太陽が昇る⇔地平線が沈む)を表現しているように思えるが、整合性は取れる。ガリレオケプラーにも太陽は昇って見えるが、ガリレオケプラーは太陽が昇って見えたとしても、”太陽は動き地球は動かない”とはみなさなかった、だけのことではないか。「太陽が昇って見えたとしても、”太陽は動き地球は動かない”とはみなさなかった」ということは、「見ているものは同じだが解釈が違う」ということになるのだろうか。


ウサギアヒルの絵において、ウサギとアヒルの見え方の違いは、見ているものは同じだが解釈が違うから見え方が異なる、ことによるのではない。われわれは解釈なしに、この絵を、ウサギと見たり、アヒルと見たりする。「見えに解釈が付け加わってウザギに見えたりアヒルに見えたりする」という表現において、「解釈」という言葉で意味されていることを、明確にすることはできない。私たちは単に、この絵が「ウザギに見えたりアヒルに見えたりする」。


太陽の問題は、ウサギとアヒルの問題とは質的に違う問題のように思える。だからといって、太陽の問題は、解釈の違いだ、ということになるのかどうかは、別の話かもしれないが。


ウサギアヒルの絵のなかには、ウサギに見えるかアヒルに見えるか決めるものは存在しない。(存在するかもしれない。)太陽の動きの中には、太陽が動くか地球が動くか決めるものは存在しない。(存在するかもしれない。)とすれば、問題は、観測データにあるのではない、ということになり、その点で両者は同じだということか。しかしその場合、問題点を決定するような証拠はデータの中にはないということなのだから、データについていろいろ考えることは的外れではないだろうか。問題点がデータ外のところにあるのなら、データ外のことについて語るべきではないか。だが、観測データがないと始まらないのも、確かだと思える。