規則の適用の事例との類似

クリプキウィトゲンシュタインパラドックス』(黒崎訳 産業図書)
P31

ある規則に訴えることから、それとは別のより一層「基本的な」規則に訴えることに移ることによって、懐疑論者に答えるという事は、魅力的である。しかし懐疑的な問題提起は、このより一層「基本的」なレベルの規則にもまた、同様に適用され得る。

通常我々は、その規則を新しい事例に適用する度毎に、自分が導かれると考えるものである。まさにこの事が、関数を新しい事例に適用して、その関数の新しい値を得る人と、アット・ランダムに数を口にする人の間の、相違である。もう少し違う対比を考えると、こうである。「+」という記号に関する私の過去の意図が与えられるならば、「68+57」に対して妥当する答えとして、一つそして唯一の答えが指令される。他方、たとえ知能テストを作る人は、2、4、6、8、……という数列に対しては、それに続く数列は唯一つしかない、と考えるかもしれないが、数学と哲学に精通している人は、そのような如何なる有限な数列に対しても、無数の規則が(しかも、通常の多項式のような月並の数学的関数によって述べられる規則でさえもが)両立する、という事を知っているのである。それゆえ、もし知能テストを私に試みようとする人が、2、4、6、8、……という数列の8の次の数として唯一つ妥当する数を与えるよう、私に迫るとしても、それに対する適切な答えは、そのような唯一つ妥当する数は存在しないし、ましてや、その数列の後に続くような(規則によって決定される)如何なる固有な無限数列も存在しない、という事である。かくして我々の問題は、次のような形で提示される事が出来る。私は、「+」に関して、将来起こるであろう事例に対する指示を自らに与えたが、この点において私は、ほんとに、知能テストを作る人と異なっているのであろうか。この問題提起を敷衍すると、以下のようになる。確かに私は単に、「+」は有限個の計算によって事例が与えられている関数であるべきだ、などと規定しはしない。事例が与えられている事に加うるに、私は、「+」に関してこれから遭遇するであろう計算に対する指示を、他の関数や規則を用いて述べることによって、自らに与えるであろう。このことは順繰に起こる。即ち私は、それらの関数や規則に関してこれから遭遇するであろう計算に対する指示を、更に他の関数や規則を用いて述べることによって、自らに与えるであろう。以下、同様。しかしながら結局この過程は、まさに知能テストがそうであったように、私が単に有限個の事例によってのみ規定するところの、「究極的な」関数と規則でもって止まらねばならないのである。もしそうであるならば、私の「+」の計算に関する手続きは、知能テストにおいて数列の続きを推測する人の手続きと同様に、任意なものではないかろうか。「125」という答えを与える十進法の計算法に従った私の現実の計算手続きは、「5」という結果を与えるところの、もう一つの手続きに対して、一体如何なる意味で、なお一層、私の過去の教育によって正当化されているのだろうか。私は単に、正当化され得ぬ衝動に従っているのではなかろうか。

しかし現実には、「68+57」の結果は「5」ではなく「125」でしかない(ということが述べられているわけではなく、「私は今まで「+」によってクワスではなくプラスしていた」と決められる証拠はない、ということが述べられている、ということなのかもしれないが)、というところに、不思議がある、という疑問は、数式で表現される法則によって物の動きの予測が出来ることに不思議がある、という疑問と似ている、と考える事は、的外れだろうか。
物の動きは自然現象であり、それに対し、規則への従い方は自分もしくは他人の<心の問題>である。通常、両者が同じ原理によって動作しているとは考えない。しかし、d:id:vjrc:20070708 より、因果関係は、世界の側の出来事ではなく私たちの態度を世界に投影した概念である、とも考える事ができ、そうであるとすれば、物の動きと規則への従い方との類似を考えることにも意味があるのではないか。
「68+57」の結果が「5」ではなく「125」であることは、そうでしかあり得ない、というほどのことではないが(この本では、もしxとyが57より小さな数であれば通常の足し算が行われるがそうでなければx+y=5である、という規則(=「クワス」)、が例として挙げられている)、<現実には>「5」になる事はない、としか考えられない。「68+57=125」であることが「暗闇の中での正当化されていない跳躍( unjustified leap in the dark )」だとしたら、何故常に125にしかならないのか、という事が問題となる。