「ある出来事が別の出来事の原因であるといった種類の事実は存在しない」のか

飯田隆クリプキ――言葉は意味を持てるか』(NHK出版)より

ヒュームによれば、帰納的推論はすべて、原因と結果の関係――因果関係――に基づいている。同一の原因には同一の結果が伴うという規則性があってはじめて、機能的推論は信頼できるものとなるからである。しかしながら、同一の原因には同一の結果が伴うということを、われわれは無条件に信じていいものだろうか。懐疑的疑いはこの一点に向けられる。

これまで原因と結果という関係にあるとみなされてきた出来事のペアのどれを取っても、一方が生じるにもかかわらず他方が生じないと考えて何の矛盾もない。つまり、原因である出来事と、結果である出来事とのあいだには、一方が生じればもう一方も必ず生じるという、必然的な結びつきは存在しない。世界のなかにあるのは、個々の出来事にすぎず、異なる出来事どうしを結びつける因果関係といったものを、そこに見出すことはできない。ある出来事が別の出来事の原因であるといった種類の事実は存在しないのである。

スピノザの議論、世界は緊密な因果関係の連鎖で構築されている(?)、との違い)

ここから、どんな出来事も原因なく生じるのだとか、どんな出来事も何の結果ももたらさないのだという議論を引き出せると考えるのは、言葉は何の意味ももたないという結論を第二章の議論から引き出せると考えるのと同様にまちがっている。この議論から引き出される結論は、原因や結果について語ることは、事実について語ることではありえないということだけだからである。そして、この結論を受け入れたとき二つの選択肢があることも、意味についての懐疑論の場合と同様である。
 ひとつは、原因や結果について語ることをいっさいやめることである。だが、その場合には、「原因」や「結果」といった言葉を使わないということだけではすまなくなる。われわれの言語は、ものやひとに対するはたらきかけを意味する「こわす」や「勉強させる」といた表現に典型的にみられるように、因果的含みをもつ語や語法に満ちているからである。したがって、ここでもこの選択肢にとって必要なのは、まったく新しい言語であるということになる。
 もうひとつが、ヒューム自身の取る道、すなわち、かれの言う「懐疑的解決」である。意味についての懐疑論に対しても、ヒュームにならって「懐疑的解決」を採用することができるとクリプキは言う。

 ヒュームの述べているところは、おおよそこんな具合に要約できる。――物心ついてからひとは、何らかのタイプの出来事――たとえば、グラスが床に落ちる――に続いて、別のタイプの出来事――グラスがこなごなに砕け散る――が生じることを繰り返し経験するにつれて、前者のタイプの出来事が生じるときにはいつも後者のタイプの出来事も生じると期待するようになる。原因と結果という概念はこのようにして形成される。このことは、「習慣(custom)」という、人間の本性に深く根ざす原理に基づいている。われわれが因果関係を信じ、帰納的推論を信頼することもまた、習慣のなせるわざである。
「懐疑的」という形容が付くにせよ、こうした説明がなぜ、懐疑的疑いの「解決」になるのだろうか。その鍵は、ヒュームのこうした説明を、概念の発生についての心理学としてではなく、概念の論理的本性についての理論として解釈することだと思われる。原因や結果という概念は、経験において出会う規則性をもとに形成されたわれわれの態度を世界の側に投影するはたらきをもつ概念であると考えるのである。

この期待に対応する、出来事の間の関係が、世界の側に存在すると考えるようになる。つまり、われわれの期待が世界に投影されるわけである。こうした投影によってその存在が想定される出来事間の関係が、因果関係である。