それ以外考えられない根底条件と法則

前回、「押したら物が動く」、ということに関しては当然のことであり、わざわざ、「物は押すと動く」ということを法則にする必要などない、「物は押すと動く」ことをわざわざ法則と呼ぶ必要はない、と思われるが、それに比べ、「どのような力で押すとどのように物は動くか」、については法則となりうる、と書きました。法則は経験則で語るしかないが、「物は押すと動く」ことは、経験則以上のこと、経験則がその上で成り立つ根底的な実感ではないでしょうか。では、それ以外考えられないような、その上で法則が成り立つ条件としての根底的な実感と、法則の間にはどのような関係があるのでしょうか。法則はどのくらい経験則的で、どのくらい根底実感的なのか。


いまここでは、「物を押すと(物は押した方向に)動く」は、それ以外考えられない根底的な条件、と考えていますが、果たしてそうでしょうか。たとえば、「物を押しても押した方向に動かない場合があるか」ということが無理なく実感できるでしょうか。物を押しても動かない場合を考えることが可能かどうか、というと、十分可能です。物を押してもまったく動かない状況を考えることはぜんぜん可能です。では、「物を押すと(物は押した方向に)動く」は、それ以外考えられない絶対的な基準、ではないことになるのか、というと、そういうことになりそうです。しかし、「物を押すと(物は押した方向に)動く」ということが成り立たないと、「どのような力で押すとどのように物は動くか」のような話は、今考えているようには成り立たないのではないか、今成立しているような法則は、「物を押すと(物は押した方向に)動く」のようなことが成り立っているから成立しているのであるから、そこが成り立たないとこの先話はできないのではないか。つまり、「物を押すと(物は押した方向に)動く」は、それ以外考えられない根底的な条件ではないかもしれないが、「どのような力で押すとどのように物は動くか」を考えるときには、「物を押すと(物は押した方向に)動く」は根底的となるのではないか、ということです。
これは、「物を押すと動く」ということは経験則に過ぎないのに、根底条件とみなしたことによる混乱であり、「物を押すと動く」と「どのような力で押すとどのように物は動くか」は、どちらも経験則であり、経験的実感の程度が違うだけ、ということだろうか?


慣性の法則(運動の第1法則)は、止まっているものは止まり続け、動いているものは動き続ける、という法則で、これは「物を押すと(物は押した方向に)動く」レベルの根底的な法則(基準)に思えるが、少し違う感じもする。「止まっているものは止まり続け動いているものは動き続ける」が成り立たない世界を考えることができるのは、「物を押すと(物は押した方向に)動く」と同じ。しかし「止まっているものは力を加えないと止まり続ける」ことが実感的に納得できても、「動いているものは動き続ける(等速直線運動を続ける)」のは実感と少し違う場合がある。走っている人は急に止まれない、というようなことを考えると、「動きを止めることにも力が必要だから力を加えなければ動き続けるのでは」、と想像は働くが、こどもの実感を働かせると(こどもさんをバカにしてすみません……)、動くには刻一刻と力が必要だ、と思えてしまう場合もあるのではないか。「何も力を加えないと動き続ける」ということには、気軽に納得できない部分がどこか残る感覚がある。アリストテレスは、空中に投げた物体が、その物体に接触して押し続けるものが何もないのに動き続けることについて、空気の動きを使って説明しようとしたらしい(という記憶があります。詳しくは覚えていないので後で調べます)。空中を飛び続けるボールにも刻一刻と動因が必要だという感性は実感から遠くなるが、動因が必要だと言われれば、そうかもしれないな、とも思える。実感にもいろいろだから、法則がその上で成り立つ、これ以外考えられない根底的な基準、というのは、実感と呼べるようなものではないということだろうか?


押すと動く、ということは、あらゆる想像の基準となる根底的なイメージで、それがあるからこそ、速度、加速度、物を押す力、の間に働く関係についての法則が、経験則でしかないながらも、実感を伴って納得できる、ということかと思っていたのですが、そういうことではないのだろうか。