因果関係と仮説

以前、法則は、すぐ見てわかるようなこと、ではないこと、わかりにくいこと、に対して言われるのではないか、というようなことを書きましたが、それと関連するかもしれない文章を読みました。

リモコンのボタンを押すと、それが原因となってテレビ放送の開始という結果をもたらす。しかし、通常、私たちは、この因果連鎖を「テレビをつける」という単一の行為として記述する。では、どのような時にこの行為を二つに分割し、「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果関係として記述するのだろうか。


それは、リモコンのボタンを押しても、テレビがつかず、「リモコンのボタンを押す」という出来事と「テレビがつく」という出来事の結合が、必然的ではない時である。すなわち、私たちが「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果的表現を用いるのは、リモコンにまだ慣れていない時やリモコンの故障を修理した後など、不確定性の楔が、出来事を二つに分割している間だけである。


分割が二つでは不十分な場合もある。ヒュームによれば、原因と結果は近接的でなければならないので、原因と結果が離れている時には、因果関係を細かい連鎖に分割しなければならない。


なぜ因果結合は必然的ではないのか

押したら物が動く、ということに関して、は当然としか言いようがなくて、法則どうこう思う余地がない、ということに比べ、どのような力で押すとどのように物は動くか、であったり、磁石の動きであったり、物の落下、など、については、法則的、仮説的気づき、が入る余地がある、ように思われる、ということだろうか。