仮説の成立、仮説の検証、仮説の正しさ

たとえば、今までに観測したうさぎはすべて白かった、だから、すべてのうさぎは白いのかもしれない、と想定した、とする。そこで「うさぎは白い」という仮説を立ててみた。そして、この仮説が正しいかどうか検証するために、観測してみた。観測を続けると、うさぎは白い、というデータが続いた。その結果から、「うさぎは白い」という仮説は正しいだろう、と判断した。そして、「うさぎは白い」は法則となった。法則となっても、仮説であることに変わりはないから、検証はいまでも続いている。

ここで、「うさぎは白い」という仮説はどこから来たか、を考えてみる。うさぎは白い、という仮説が成立するためには、今までに観測したうさぎはすべて白かった、という観測データが必要となる。今までに観測したうさぎのなかに黒いうさぎがいたら、うさぎは白い、という仮説は出てこない。しかし、今までに観測したうさぎはすべて白かった、という観測データを得るためには、いろいろな種類のうさぎを観測していなければならないし、さらに、それにくわえ、その色が白いことに注目していなければならない。そうでないと、うさぎの白さに気づくことはできない。「今までに観測したうさぎはすべて白かった」の時点で、うさぎの白さがすでに注目されている。

ということは、データがあってそのあとに仮説が生まれる、のではないのかもしれない。だからといって、データを得る前に仮説を立てることはできない。仮説は、データがあって、初めて成立するものである。データもないのに、そのことについて認識することはできない。後でも先でもない、とすると、仮説とそれを支持するデータは、同時に生まれる、のではないだろうか。仮説への気づきと、仮説を支持するデータは、同時に得られるということではないか。仮説という気づきを生むのは、データではあるが、仮説を支持するデータは、仮説の後に、これらのデータは仮説を支持していた、という形で認識される、ということだろうか。
少なくとも、仮説は、データの蓄積の上に成り立つ、という、帰納法的な生まれ方はしていない、とは言えるのではないか。だとしたら、仮説が正しいこと、つまり、なぜ仮説はまだ観測していない未来のことについても成り立つのか、というと、仮説はそもそも過去のデータに依存しているものではないから、ではないか?

仮説や法則が、過去の観測データの上に成り立つものだとしたら、そのような仮説や法則が、未来のことや、まだ観測していないデータについても成り立つのは不思議なことかもしれない。しかし、仮説や法則が、過去のデータから生まれたものではないのだとしたら、未来のデータについて成り立つのは、不思議ではない、と言えるだろうか。また、仮説や法則が未来のデータについて成り立つことが不思議ではない場合、仮説が誤っていることはあるし、法則が修正されることもある、ということは、どのように説明されるだろうか。多くのデータを説明する複雑な数式(=法則、仮説)が作成された(発見された)とき、その複雑な数式から思いもよらない未来のデータを導き出されたとする。そのとき、その未来の予測は当たるのか、外れるのか、どちらもありうるのか。当たればその数式の信用度は格段に増し、外れるとその数式は再検討される、とすると、その数式は、どのような考えの上で成立した数式だろうか。場合によっては、たとえば、未来予測の後に観測されたデータが数式から外れたとき、むしろ観測データのほうが疑われる(観測データの間違いが検討される)、ようなときもあるのではないか?