仮説はどこからくるか

立てた仮説が検証を経て法則になり、その法則によって現実の予測が可能になる、のだとしたら、仮説はどこからどのようにして出てくるのだろうか。
あらゆる認識は観測から始まる。だから、たとえ仮説だとしても、観測結果から得られる何か、以外のことが、仮説になることはない、と考えられる。仮説とは、観測結果についての何かなのだから、それは当然である。問題は、観測結果のなかの何が仮説となるか、ということ、なのか。
いくら豊富なデータを得ても、それらのデータについて、何らかの気づきがなければ、仮説は生まれない。いや、そうではなく、いまは仮説がどのように生まれるのかを問題にしているのだから、仮説には何らかの気づきが必要である、ように考えられる、ということか。
たとえば、今までに観測したうさぎはすべて白かった、だから、すべてのうさぎは白いのかもしれない、そこで「うさぎは白い」という仮説を立ててみる、とする。そしてこの仮説が正しいかどうかを、観測データによって検証するとする。検証を続けてみると、いくら観測してもうさぎは白い。その結果「うさぎは白い」という仮説は正しいだろうと判断される。そして、「うさぎは白い」は法則となる。法則となっても、仮説であることに変わりはないから、検証は続いていることになる。ということだろうか? 「うさぎは白い」という仮説は、今までに観測したうさぎはすべて白かった、という事態があって初めて成立するわけだが、「今までに観測したうさぎはすべて白かった」の時点で、うさぎの白さが注目されている。もうここで仮説が立てられている。仮説が立てられている、とまでは言えないかもしれないが、仮説が成り立つような視点は成立している。この視点がなければ、「うさぎは白い」という仮説は生まれないはずだ。では、「今までに観測したうさぎはすべて白かった」のような視点はどのように成り立つのだろうか。
「重いものほど速く落ちる」の場合はどうだろうか。これは日常の重さ感覚に由来しているように思われる。物の重さを量るやり方として、実際には落下を重さの計量には使用できないにしても、計量ができる可能性として物の重さと落下の関係の仮説が生まれたのではないか。となると、仮説には、種々の仮説それぞれについての心理的社会的歴史的人類学的理由がある、というようなことになり、それ以外ではないように思える。これは完全に推測、想像の話だから、本当は違うかもしれない。このような話にはあまり意味はないと思う。
それに比べ、「物は何故落ちるのか」に対する仮説として、「物は本来あった場所に戻るため」や「万有引力があるため」というものを考えると、そういう仮説を生む社会的背景がある、ということ以外にも、いろいろ考えられる部分があるような気がする。たとえば、何故落ちるのか、に対して、万有引力があるから、という答えで、答えになっているのだろうか。万有引力があるから、と答えるということは、落ちるのは何故か、という問いに対して、引く力があるから、と答えるということであり、これで同語反復なのではないか? だからこう答えてしまうと、次に、では何故物には万有引力があるのか、とすぐ問わなければならなくなるのではないか。もし同語反復ではなく、万有引力という答え(仮説)に説得力があるのだとしたら、それはどのような説得力だろうか。また、同じように「物は本来あった場所に戻るため」という答えに対して、「では何故物は本来あった場所に戻らなければならないのか」と問うことはできるが、この問いは「物は何故落ちるのか」という問いとはかなり質が異なる問いになっており、万有引力があるという答えに対する、言い換えただけなのではないか感としての再質問とは異なるように思われる。
このような議論を「うさぎは白い」ことについて当てはめてみると、「うさぎは白い」は記述仮説、「うさぎが白いのは太陽の使者だから」はモデル仮説、「うさぎが白いのは毛を白くする遺伝子を持っているから」は言い換え仮説、ということになるだろうか。これらはこのように名前をつけて並べられるような同レベルの仮説だろうか。また、これらのような直感的で単純な仮説の場合とは異なり、複雑な数式で表されるような仮説もあるように思う。この場合は、モデル数式仮説、と呼べばよいだろうか。有意味なのがモデル仮説で、観測記述の共通点を取り出しただけの(無意味な)仮説がそれ以外、という分類ということになるだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/vjrc/20070503#p2


いつも以上にとりとめのないいいかげんな話だったように思います。いつもも相当いいかげんな話ですけど。