法則に「自然の斉一性原理」を付け加えることについて

法則には、法則本体とその適用範囲がどこまでか、というふたつの側面がある、と考えることができる。物の動きについての法則なら、ものの動きを表現する簡単な表現と、その表現はいつからいつまでなりたつのかどこまでならなりたつのか、というふたつの側面がある、ということになる。自然の斉一性は、適用範囲についての法則の一種だということになるのではないでしょうか。つまり、自然の斉一性は、時間的空間的な変化があっても、法則(の表現する事態)は急に変化したりしない、という法則だということではないでしょうか。とすると、自然の斉一性は、要するに、法則についての法則であり、それをわざわざ明示するのは、余計なこと、だと言える余地もあるように思えます。
法則(法則の表現する事態)は、たとえばF=maは、この数式だけを見るなら、いつでも、どんな場所でも、成り立つものです。この数式が成り立たない時刻、成り立たない場所、があるのなら、この数式に、そのことを付け加えるべきでしょう。そうして初めて法則と言えることになると思います。そして、このうえさらに、この数式の表現する事態は、いつでもなりたつ、とか、どこでも成り立つ、というように、この法則に自然の斉一性原理を付け加えると、厄介なことが起こってしまうように思います。
F=maは、この数式ができたときには観測できるほとんどあらゆる事実に適合したのかもしれないが、法則作成5秒後には成り立っていないかもしれない。だから、今後も成り立つ法則として考えるなら、この法則に、自然の斉一性原理を付け加えなければならないことは、必要だと思われます。F=maという法則があり、それはいつでも適用できるとする、わけです。しかし、F=ma+自然の斉一性原理によって表現される法則もまた、5秒後には成り立たなくなるかもしれないことになるのではないでしょうか。自然の斉一性原理を適用しなければ、「F=ma+自然の斉一性原理」という法則は、今は成り立っているかもしれないが、5秒後には成り立たなくなるかもしれない、と考えることができてしまいます。これでは、どこまでいっても法則が表現しようとしていることが表現できない、法則の表現は、現実の事実に追いつかない、現実は予測ができない、ことになってしまうのではないでしょうか。


※上は「自然の斉一性原理」の意味を間違って理解している
 →http://d.hatena.ne.jp/vjrc/20070520#p1