重いものほど速く落ちることを否定する思考実験について5

背理法は無視しました。過ちは早く認めるべきです。何故過ちだと思ったのか、についてはよくわかりません。背理法を考えてみようと思ったきっかけは、この思考実験は論理のフリをしていながら常識的感覚にたよっているのではないか、だから論理だけで行ってみると何かわかるのではないか、と思ったことです。背理法について考えるとやる気がゼロになるので、その前にまず、どんな感覚に頼っているのか、を明らかにしておこうと思いました。

  1. 重いものほど速く落ちると仮定する。(仮定、否定したい内容)
  2. 重いものと軽いものをひもで連結して落としてみる。(実験)
  3. 連結したもののうち軽いほうは、重いほうよりも遅く落ちるから、連結したものは、重いものを単独で落とすよりも、遅く落ちる。(結論1)
  4. 連結したものの重さは両者の和であり、個々のものよりも重いから、連結したものは、個々のものを単独で落とすよりも、速く落ちる。(結論2)
  5. 結論1と結論2は矛盾する。したがって、仮定が誤っていることになる。重いものほど速く落ちる、という仮定は誤りだった。落下の速さは重さとは関係ない。(結論)

重いものほど速く落ちる、と仮定した段階で、背理法かどうかということ以前に、重いものほど速く落ちることが問題になっているのだな、重いものほど速く落ちることを否定したいのだな、ということは、なんとなくわかります。重いものほど速く落ちることを否定するための思考実験だということは、この思考実験からわかります。この思考実験は、これをする前には、重いものほど速く落ちるかどうかわからないが、これをすることによって、それがわかるようになるだろう、というような実験ではないです。最初から、証明したい内容がわかっているのであり、そのためになされた実験です。実験と呼ぶより、証明と言うべきでしょうか。ということは、問題なのは、何故、実際の実験をするまえに、重いものほど速く落ちるわけではないという結論が、既に存在することができたのか、ということです。重いものほど速く落ちるわけではないという確信があれば、重いものほど速く落ちるわけではないという結論は、思考実験にせよ、実際の実験にせよ、導きだされるのにそれほどの困難はないような気がします。重いものほど速く落ちるという素朴な自然観の中に居るときに、重いものほど速く落ちるわけではないという結論が導き出されるのは、実際の現象であれ、頭の中の考えであれ、ほぼ不可能なような気がします。となると、重いものほど速く落ちるわけではないという気づきがどこからやってきたのか、ということが最大の問題になる、のかもしれないのですが、それは、社会学歴史学や心理学やそのあたりの問題のような気がしまして、それはそれで非常に重要なことだとは思いますが、そのことについては今は置いておきます(置いておくしかないので置いておきます)。今後ガリレオガリレイ)さんのことを知るうちに知識として知ることができるかもしれませんし、そうではなく、そういう固有名詞によらないやり方で、認識の進んでいく道筋を追っていくように気づきをたどることができる、のかもしれませんが、そのことについて特別に考えたいという気持ちはありません。考えることが必要なら考えたくなくても考えなければならないと思いますが、必要という感じはいまのところないです。今確認しておきたいのは、この思考実験は、それをする前から、重いものほど速く落ちるというわけではないということが確信された上でなされたものであるということです。頭の中で(思考の中で)何度も何度も物を落として、それを観察した上で、重いものほど速く落ちるわけではないのではないか、と発見した、というようには、物事は進んでいない、のではないか、ということです。この思考実験の前から結果はわかっていた、ということを確認して(違うかもしれませんが)次に進みます。
1.重いものほど速く落ちると仮定する。(仮定、否定したい内容)
仮定するも何も、重いものほど速く落ちるというのは、常識でありますから(常識であるというときにこの思考実験をすることに意味があるわけですから)、このような仮定をして常識に反することを言うのなら、それなりの説明が必要なのではないかと思います。常識は好きか嫌いかでいうと嫌いですが、常識に反するただひとつの真実というのはない、のではないかという思いもあります。つまり、常識というのは、身の回りの習慣や生活やそういういろいろな正さと結びついたところにできるものですから、そういう常識に反したことというのは、ただひとつの常識に反するだけではなくて、いろいろな常識や習慣や生活や正しさとぶつかるのではないかと思えるわけです。常識をひとつだけ壊せば非常識が通るわけではないのではないか? もしくは、常識をひとつ否定すれば通るような非常識は、常識の変奏に過ぎないのではないか? と思えます。「急がば回れ」「石橋を叩いて渡る」など、ことわざにも一見非常識に思えるものが、少なからずあるわけですから、安易に、常識破壊したと思っても、それは他の多くの常識に頼ったものなのではないかと思います。他の多くの常識に頼ったものを果たして非常識と言えるのでしょうか。常識について少し書きましたが、これらは、そうかもしれないしそうでないかもしれない、ような、どうでもいいことだと思います。すみません。いいたかったことは、この仮定は、常識に反して物の重さについて一歩踏み込むぞ、という宣言なのではないか、ということです。この宣言をしてしまうと、もう素朴な、物の重さと落下の速さの関係にもどることはできない、ということです。この仮定によって、たとえ、重いほど速く落ちるという結論が出たとしても、その結論は、これまでの、素朴な物の重さのずしっとした感じとそれから連想される物の重さと落下の速さとの関係とは異なった、新たな段階に踏み込まざるを得ないのではないか、と思えます。この妄想は少し素朴すぎると思いますが。
3.連結したもののうち軽いほうは、重いほうよりも遅く落ちるから、連結したものは、重いものを単独で落とすよりも、遅く落ちる。(結論1)
4.連結したものの重さは両者の和であり、個々のものよりも重いから、連結したものは、個々のものを単独で落とすよりも、速く落ちる。(結論2)
重いものAと軽いものBをひもで連結したものCの重さは、AとBの和である、というのはわかります。しかし、和というものを考えたとき、AとBはくっついていなければならないのではないか、と思います。AとBがそれぞれの重さに対応した自由な落下の速さを実現できるとすると、それは単にAとBが独立して落下しているだけの話で、AとBの連結体としてのCが落下しているわけではないはずです。自由度のない硬い金属の棒(重さは無視するとする)でAとBを連結すると、AとBの連結物体は、A+Bの重さであるCの速度で落下し、Cにおいて、AにはAの落下速度があり、BにはBの落下速度があるから、Cの落下速度はAとBの中間の速さになる、などと考えることは難しいです。ひもがピンと張っていなくて自由度があるぎりぎりまでは、AはAの速さで落ち、BはBの速さで落ちるが、ひもがピンと張り自由度がなくなった瞬間、あるいは、ひもの長さを0にしてAとBがくっついた瞬間、AとBの連結物体は、AよりもBよりも速く落ちる、などというのは変だ、という考えも、なぜ変と言えるのか、それはおかしいと言える根拠はなにか、となるとよくわからなくなります。重さには和を適用するが、速さには和を適用しない、という考え方そのものが、矛盾を引き出しているのではないか、と思えます。重いものの重さは、重いもののを分割してできる軽い部分の総和ではあるが、落下速度はその軽い部分を落下させたときの速さの平均だと言えるのか? とも考えられます。部分部分の速さの総和ではだめなのか? 物が重い、重いものほど速く落ちると言ったときの落下感覚からすると、ふたつのものを連結させたときの落下の速さは、両者の中間の速さではなく、速さの和になりそうです。これなら、AとBを連結させたときの落下速度はAよりもBよりも速くなる、となり、しっくりきます。しかし、上記思考実験の、Cの速さはAとBの中間の速さになるという考え方は、それ単独では、納得できる考え方です。この、重さ感、速さ感、の違い、は大事なのではないか? 大事ではないかもしれない、と思います。Cの速さはAとBの中間の速さになるのか、Cの速さはAとBの和になるのか。落下の速さが物の重さを起因とするなら、足すべきではないか、と思います。そこで速さの釣り合いを取ってしまうなんて、間違った計算ではないでしょうか。しかし、速さの異なる2台の自動車をひもで結んで走らせると、その速さは両者の中間になる、のは正しいと思えます。速さを問題にする限りこう考えるしかないのではないか。速さの和という考えが出てくるのは、重さのずっしり感の和の感覚の延長で考えているからではないか。物の重さを自動車のエンジンの性能だと考えると、物の落下する速度は、部分の和ではなく、部分の速さのつりあいに等しくなる、と考えるのが自然だと思えます。重さ感、速さ感の問題は、速さのつりあいの方を優先させるとして、その速さと速さのつりあい関係をそのまま、重いものは多くの軽いものから成り立っているという考え方にまで適用できるものでしょうか。重いもの(=速く落ちる)は、多くの軽い部分(=遅く落ちる)から成り立っている。だから重いものは、その部分である軽いものの落下速度のつりあう速さで落ちるはずだ。となると、重いものは限りなく重さがゼロになるまで分割できるから、限り無く遅く落ちる、ことになってしまう。これはおかしい、だから重いものほど速く落ちるわけではない、となるのか? そうではないように思える。思える、というよりも、感じられる。やはり、重さの分割と、速さのつりあいの差が、この思考実験の納得にしにくさの原因のように思えます。



今回も迷走しましたが、背理法から離れ、考えたい方向に向かい出すことができたのではないか、と思います。まだ考えたい方向に向かっているとはあまり思えません。重さ感、速さ感、の問題よりも、物を落とすといつも計算式によって導き出される位置と時刻に落ちる、ということに関する問題を考えたいからです。左右よりも手前向こうを狙う方が難しいという問題について考えることは(間違った考えかもしれないのですが)、予測の質の差について、いろいろ示唆を与えられたように思います。今回の、物の重さと落下速度の関係の問題については、どうもうまくいっている感じがしない、というわけです。