地球は丸いと言ったときの丸さは、ボールが丸いと言ったときの丸さとは、意味が異なる、のかどうか(2/4を修正したもの)(修正しましたが、内容は酷いままなので、再度修正予定)

丸い、ということは、それを、目で確認することができ、地面が下にあって、上には空がある、という常識的生活空間のなかで、手で持って投げることができたり、眺めてその形状を見ることができる、時に初めて成り立つことである。では、地球が丸い、ということはどういうことか。地球の丸さは、ボールの丸さとは全然違う。しかしいったん地球が丸い、と言ってしまうと、その地球の丸さも、ボールの丸さと同じように感じさせられてしまう。太陽系を円盤状に見立て、あたかも、今見ているパソコンのモニタが置かれている机の上にその円盤を置いたかのように、太陽系および地球を上下左右のある空間のなかに位置づけ、それを外からまとめて見ることができる位置に自分を置き、ボールを丸いと思うように地球を丸いと言っている。それは、いま自分が立っている地面が地球で、それが実は丸い、ということとはまったく別のことになる。地球は丸くない。今立っている地面が丸い、ということは単純に、丸いという言葉の意味や、地面という言葉の意味に反する、言葉の間違った使い方、ではないだろうか。というようなことが永井さんの本に書いてあったような記憶があります。
地球は丸い、と言えるときももちろんあるが、今立っている地面である地球は丸くない、ということでしょうか。地面は普段、平らで、動かず、あらゆるものごとの基礎であることの比喩に使われます。〜の土台、とか、地に足を付けて、だとかいう言い方があります。そのような地面が、その語感のまま、強引に、別の意味空間の中に位置づけられてしまうから、地球が丸いというのは変だ、あり得ない、体感ではまったくわからない、というようなことになるのではないでしょうか。
地球が丸いとか自転しているとか太陽の周りを回っているということは、目の前のボールが丸かったり回転したりバットに打たれたりすることとは異なる、ということでしょうか。それは、地面や地球は、この宇宙の中心に存在する不動の基準だということから、この宇宙を成り立たせている規則においてそれぞれが影響しあう関係を持ちいろいろな動きをする多くの物体のなかのひとつである、という見方の変換、の問題とも、少し違うような気がします。
生活的自然観のなかにある地面である地球を、不自然に度を越えて拡張するから、海の向こうに滝があって魔物が口をあけて待っている、というような話になるのではないでしょうか。海の向こうに滝があって魔物が口をあけて待っていると昔の人は考えていた、という話はなんとなくあやしいです。海の向こうに滝があって魔物が口をあけて待っていると昔の人は考えていたというのは、昔の人エンタリズムというものではないでしょうか。これは完全に想像だけで言っています。たぶん魔物がいると思っていた人もいるかもしれないと思います。この魔物は、今なら、宇宙の端に来たら固い壁がある、のように言い換えられるように思います。空間自体に対して、空間の中のものに対するように、大きかったり小さかったり端があったりする、と考えることは、誤解ではないかと思います。それで思い出したのは、小学生のとき好きだった絵本のことです。
かこさとしさんの『宇宙』(1978年)という絵本なんですけど、この絵本はすごくおもしろいです。絵を見ているだけで楽しいので今持っていない私は買おうと思います。私はこの絵本が大好きで小学生の頃何度も何度も読んでいました。この絵本が好きで何度も何度も読んでいたのは私が高校生のときのことです。少し嘘をつきました。何を書くにもこういう意識が忍び込みます。何故かこさとしさんのこの絵本を思い出したのかというと、この絵本は当然宇宙について書かれているのですが、最初は、ノミ(蚤)のジャンプから始まります。記憶が確かではないですが、たぶん蚤からだったと思います。こめつきバッタだったかもしれません。