予測と常識的自然観

重いものと軽いものを連結して落とす思考実験のほうを先にちゃんと考えないといけないと思いますが、忘れないうちに正直な話をしておこうと思います。

本音を言うと、私は無理矢理話を作っている、私はつまらないことを考えている、しかもちゃんと考えればおもしろくなるかもしれないのに、ちゃんと考えてもいないな、と思います。ちゃんと考えても面白くなるかどうかはわかりませんし、ちゃんとできるかどうかは私の意志でどうにかできることではなく、能力の問題だと思えるので、ちゃんと考えていないと思ったからといって、それがよい働きをするわけではなさそうです。私の疑問というのは、どこかで聞きかじったようなことを、私の疑問であるかのように薄めて並べているだけです。自分が感じていると思っている不思議感は、どこかから借りて来た不思議感、読んだことのある既成の疑問のような気がします。じゃあピュアな疑問などあるのか、というと、そういうこともいろいろ大変な問題があるのかもしれませんが、今はその疑問は置いておいて、予測できるのが不思議だという疑問は、本音(という御都合 ピュア)で言うと、全然不思議ではなく、そういうもんだ、そういうふうになっている、ということだろう、と思っています。疑問は捏造でした。疑問があることにしないと話が進まないから疑問があることにしました。では何故話を進めないといけないのか、ということも、大変重大な問題だと思います。これについてはちゃんと考えたい気持ちがありますが、今は置いておきます。今は、予測ができることは不思議ではなくそういうものだ、ということについて少し考えてから、重いものと軽いものを連結して落とす思考実験について考えようと思います。

観測データから、数式としての法則を立て、予測をして、当たった、あるいは、いくら観測をしても、法則の通りに物事が動いている、のが不思議だ、とはどういうことか? 確かに、これまでのデータから抽象的に作られた法則がこれからの現象や観測していないときのことにも適用できるとは限らない、という考えは、それなりの正当性があるように思える。しかし、この考えは、これまでの物の動きは、膨大な観測データとして、私(たち)の自然観の根底にある、ということを軽視しすぎている、のではないか。このことを無視して、これまでとは違うように動くかもしれないのに恣意的に作り出した法則の通りになるなんて不思議だ、という疑問は無理矢理ではないか。法則ができるということ、法則を作ろうという流れ、法則が作られるという私たちの行動自体、現にあるさまざまな物の動きが成り立たせている自然観によってはじめて可能になるようなことなのではないか。そこまで行かなくて、一段階上の部分で考えても、たとえば、さまざまな要因が複雑に絡み合って予測が困難だと思えるものについては法則が作れないだろうし法則を作ろうとすらしないのではないか。知識がないだけで、そういう例もあるかもしれません。観測、法則、予測、ということが成立するためにはまず、法則が可能だという前提がなければならないだろうから、法則ができるという段階で、法則を成り立たせている基盤自体が不規則なのではないかと問うことは、法則や自然観の義務を、必要以上に、不自然に、問題視している、ということになるのではないか。それは成立の条件なのだから、それを問いただしてしまうと、それ自体が成立しなくなってしまう。

常識的自然観の根底、羽はふわふわして落ちるとか、石を投げると放物線を描いて落ちるとか、それ以前に、物は落ちるとか、石は固いとか、そういった、目を開ければ必ず目に入りさまざまな常識やものの考え方の根底にあるような物の動きや性質について、そうでないことも可能なのだからこれからもそのようになるとは限らない、という思い方は不自然すぎる、ことになる。石は固いものとして常識的自然観の根底近くにあるのであり、だから石橋を叩いて渡るという言い方ができている、のだから、そのことに対して、石の固さという性質は経験的で偶然的で明日になれば柔らかい石もあるかもしれない、柔らかい石がたくさん見つかるかもしれない、石は固くないかもしれない、という考えは、石という概念を不自然に拡張していることになるのではないか。やわらかい石は石ではない。石と同じ成分だがやわらかいものが存在するとしてだから石は固いとは限らないと言ったとき、落ちる速度は物の重さとは関係ない、と言ったときと同じことがおきているのではないか。固くない石は石ではない。落下しない物は物ではない。風船は浮きますが……。法則となった現象の法則性自体の不規則性を指摘するのはやり過ぎですらなく、はっきりと、間違った指摘、なのではないか。法則の法則性は法則に込みだ、ということになるのではないか。

こういう言い方が成り立つのは、常識的直感の範囲内だけです。私たちは常識的自然観、常識的直感の範囲内で生活しています。だから普段は成り立つ。地球が丸いとか自転しているとかいうことは、直感とはまったく異なる非常識な事実ですが、この場合はどうか。地球が丸いとか自転しているとか地動説とかの段階で、もう通用しないのか? 物の落ちる速さは物の重さと関係ない、ということすら、実感とは異なる部分がある。正直に言っても同じでした。

自然観の問題と法則の法則性は、問題が重なっている部分と、重なっていない部分がある、ように思える。非常識な観測事実の非常識性と、常識的自然観の常識性はレベルが違うのではないか。常識的自然観の常識性は認識の根底、のようなところの話だから、地球が自転しているということや、重いものほど速く落ちるわけではないという実感に反した事実は認識の根底を覆すとか、認識を成り立たせることに反する現象というわけではない、のではないか。地球が丸いとか自転しているとかいう事実が、実感とはまったく異なる、という考えは、「昔の人」の実感を他人事だと思っていることになるのではないか(他人ですが)。今の私は地球が丸いことや自転していることを常識的に受け入れているし、地球が丸いことや自転していることを、実感とはまったく異なる異常な事実と感じてはおらず、それどころか、その事実の知識と実感とを切れ目なく受け入れているのではないか。列車の中では速さを感じないとか、完全な直線に見えるものでも、振り返って200m後ろを見たら曲線だった、のような例を頼りに実感を修正しているのではないか……。