重い物ほど速く落ちるという法則はどういう法則か。

重いものほど速く落ちる、という考えには、変な感動があります。あーそっか、なるほど……確かに……、と思ってしまいそうになる直感的な正しさがあります。確かめてみたわけではないので、わかりませんが、実感的にはほとんどの場合、重いものほど速く落ちる、ように思えます。水の詰まったペットボトルと、空のペットボトルを同時に落とすと、おそらく水の入ったペットボトルの方が先に地面に到着するだろうと、なんとなくですが、思えます。
重い物ほど速く落ちる、ということは、ほとんどの場合、正しい。正しくないかもしれないけど、実感的には、微妙なところではある。少なくとも普通に(?)実感として想像すると、重い物ほど速く落ちる、と思うような気がする。それに、重いものも軽いものも同じ速さで落ちる、という考えは、確実に、科学絵本から知った理念であり、実感のみから知った考えではないです。もしかしたら、今でも、ガリレオガリレイ)のピサの斜塔の話を知らなければ、重い物ほど速く落ちると思っているのではないか、と思えます。思えます、と書きましたが、これは仮定に入れ込みすぎの思いでしょうか。ガリレオの話を知らなくても、自然と、実感を超えて、重いものも軽いものも同じ速さで落ちる、と考えるようになるでしょうか。あるいは、実感として、重いものも軽いものも同じ速さで落ちる、と思うことがあるのでしょうか。
この問題が私にとって切実でないのは、つまり、重い物ほど速く落ちようが、重いものも軽いものも同じ速さで落ちようが、どちらでもいいのは、生活に関係ないからなのでしょうか。私は生活に関係のないことばかり毎日やっていますから、生活に関係ないから切実でないわけではないかもしれません。毎日やっていることが生活なのかもしれません。重い物ほど速く落ちようがそうでなかろうがどちらでもかまわないのは、そのことが重要となる場面が私には無いからかもしれません。だからたとえば、私が、重い物ほど速く落ちることを最大限に生かした仕事を生業としているなら、この問題は大問題となるかもしれない、と思います。重い物ほど速く落ちることが自分の信念や信仰と密接にかかわってくるのなら、この問題は大問題となるだろう、と思います。しかし私にとってこの問題は、仕事や信念とは何のかかわりもない問題なのではないか、と感じている、ように思います。だからこんなつまらないことをだらだら妄想することができるのだと思います。
このように考えると、アリストテレスが、重いものほど速く落ちる、と考えたのだとしたら、それはどういう意図で、どんな場面で言われたことなのか、が気になります。アリストテレスはものすごく偉い人なのだと聞いております。論理学は、アリストテレスが出てきてからフレーゲが出てくるまで2000年以上進歩しなかった、それぐらいアリストテレスの論理学は凄かった、のようなことも、誤解かもしれませんが、聞いたことがあるように、記憶しております。アリストテレスが、重いものほど速く落ちることを最大限に生かしたことについて考えていたのなら、その間違いに気付かないはずはない、と思えたり、それが間違いではないような考え方の枠組みがあるのではないか、と思えたりします。アリストテレスは、論理学では偉いが、物の落ち方、に関してはあほなのでしょうか。アリストテレスにとって、重いものほど速く落ちる、ということはどういうことだったのか、も重要なことのような気がしますし、重要でないことのような気もします。重い物ほど速く落ちるということが、アリストテレスの後1800年間ぐらいは通用する考え方なのだとしたら、ガリレオの、重いものも軽いものも同じ速さで落ちる、という考え方はどういう考え方だということになるのか。また、ガリレオが、実験で、重いものも軽いものも同じ速さで落ちるということを確かめた、という事実は、何を確かめた事実だということになるのか?