左右と手前向こうの違い

予測ということに関して、数式から少し離れてみます。もっと素朴に考えられないか? 素朴がいいのかどうかはわかりませんが……。数式じゃなかったら素朴になるのかというとそうも思えませんが……。
ボールを上に向かって投げると、ボールが上に投げ上げられ、しばらくたつと、ボールが下方向に落下し始め、ボールが落ちます。この現象の周辺について少し考えて(妄想して)みようと思います。野球のボール(硬球)を投げて、狙ったところに落とすことにします。20mぐらい先に、直径1メートルの円を描いて、その中にボールが落ちるように狙って投げます。投げると、円の手前にボールが落ちた。円の中にボールを入れるために、もう少し強くボールを投げた。すると今度は、円の向こう側にボールが落ちた。というようなことは、ありそうなことです。また、ボールを投げると、円の右側にボールが落ちた。だから次は今投げたところよりも、ちょっと左側を狙って投げてみた、すると、円の中にボールが落ちた。というようなことも、ありそうなことです。これは予測ではないか? 仮説とその検証になっているのではないか? 現象への気付き→観察→仮説→実験→実験観測→仮説の検討、といういわゆる科学的な流れになっているということになるのではないか。この場合、仮説を立ててそれを現実に適用すると現実と合致する、というところに不思議はあるだろうか?
ボールを、20m先の直径1メートルの円に向かって投げると、50cmぐらい右横に落ち、次に投げると円の中に落ちた、場合、指先は相当微妙な動き、微妙ではなく、精密精妙な動きをしているのではないか? さっきは右に外れたから今度はX度左に向けて投げる、などと意識して投げると、左に大きく外れてしまいそうです。目は円だけを見て手に意識は行ってなさそうです。そんな無意識下の身体制御というか、身体知の精密さ、について考えているのではないのでこのことは無視します。
狙ったところよりも右側に落ちたから、今後は左側に投げてみたら、さっきより左に落ちるだろうと予測して、左に投げてみると、さっきより左側に落ちた。予測をして、予測が当たった。狙ったところよりも手前に落ちたから、今度はさっきより向こう側を狙って投げると、さっきより向こう側に落ちるだろうと予測し、さっきより向こう側を狙って投げたら、さっきより向こう側に落ちた。予測をして、予測が当たった。どちらもありそうなことです。ありそう、ではなく、実際あるし、世の中はそういう風になっている、以外ないのではないか?
ここでものすごく問題なのは、さっきより左側に投げてみたら左に落ちた、ということと、さっきより向こう側に投げてみたら向こう側に落ちた、ということの差です。さっきより左側に投げてみたら、さっきよりさらに右側に落ちた、とはならない、ということで、これは偶然の話だろうか? 偶然というより、経験的、なことに過ぎないのか? 左側に投げると左に落ちる、ということはこれ以上ないくらい確実な法則、原理、だと思えます。左に投げると右に落ちる、のはなんかもうむちゃくちゃです。それがどういうことか想像すらできないのではないか? 左は左というのは原理過ぎる。それが成り立たなくなったら世の中が全部おかしくなりそうです。いや、それも想定できる、左に投げると右に落ちるかもしれない、という考えをすると、これは全部夢なんじゃないか、私は培養器の中の脳なんじゃないか、のようなものまで行ってしまいそうに思えるのですが、そこまで行っても左は左なような気がするのですが、そうでもないような気もしますが、そこまで行かないといけないのだろうか……。そういう左右の確実性に比べ、さっきより向こう側に向かって投げてみたら向こうのほうに落ちた、のほうは、左右よりも確実な原理とは思えない、ということです。これはなんかすごいことだ。別にすごいことではないか……?
左右の狙いのほうが手前向こうを狙うよりも簡単とかそういうことではなくて、人間は左右のほうが手前向こうよりも認識しやすいとかそういうことではなくて、左に向かって投げたら左に落ちる確実性よりも、手前を狙って投げたら手前に落ちる確実性のほうが確実性が少ない(小さい)、ように思えます。この差は何だろうか? 差があるという思いが誤解、というか、混乱しているだけ、という気もしますが……。