法則ができるまで

やっぱり位置や速さが決まりごとということと、投げた石が落ちる場所が決まりごとであること、は全然違うことです。単位時間当たりの移動量を速さとする、ということは予測とは何の関係もない。全体的にまったくわかってないか混乱してるか当たり前のことを考えているか、そういうことしか書いていないような気がするのですみません……。
外から力が働かない限り、止まっている物体は止まり続け、等速直線運動をしている物体は等速直線運動を続ける、という法則(慣性の法則)は、決まりごとではないです。そういうことに決めた、と思っても、実際はそうではない、ということはありうる。ただ、いろいろな物体を見る限りでは、間違いのない事実だ、ということになる。先に慣性の法則があって、それが正しいか間違っているか、ではなく、物体の動きをずっと見てきたという経緯があって、そのことにより慣性の法則が考えられた、のだから(? のだとしたら)、そこで、止まっている物体がひとりでに動き出すかもしれないじゃないか、という想定はおかしなことで、そういう事実が観測されたなら、慣性の法則は最初から成り立たなかった、ということなのか?
法則が正しいか間違っているかということについて、法則ができるときと、法則を適用する(予測に使用する)ときは、まったく違うことを行っているのだから、そこを分けて考えないといけない。ここも混乱していたと思いますすみません……。

  1. どうなっているんだろうということを意識する。(モデル意識、原因結果意識)
  2. その問題について調べる、観測する。(モデル意識、原因結果意識)
  3. 仮説をたてる。数式に当てはめる。(モデル意識、原因結果意識)
  4. 予測する。まだ観測されていない事実について仮説から考える。
  5. 実験する。仮説との一致を調べる。
  6. 仮説の修正を行う。4へ。

法則は、できたとかできないとかいうようなものではないかもしれない。いろいろな物体の動きを見て法則ができた、というところには難しい部分があるというか、いろいろな物体の動きを見る、ということと、法則の間にはかなり距離がある、ような気がする。このあたりが、物が落ちるときの速さは物の重さに比例する、のかどうかの話につながっていくような気がする。「(モデル意識、原因結果意識)」というのは、そのままの自然を見ているわけではない、みたいな感じです。物が落ちるときの速さは物の重さに比例する、という考えは、単に間違っている、と考えるのは駄目なことなのだろうか。物が落ちるときの速さは物の重さに比例する、ということが正しいのだとしたら、どういう点で正しいのだろうか。
全部妄想です。ちゃんと考えているわけではない(ちゃんと考えられない)のですみません……。どんなモデル(仮説)も想定可能みたいな話ではなくて、現在既にいろいろな法則があって、それが現実にちゃんと合っている、運用されている、ということはどういうことか、というような話です。
4だけは、他と違い、かなり特異なことをしている、ようなイメージです。普通そんな予測は当たるはずがない、ような感じです。でも当たる。そんなもの当たるはずがない、と考えるのがおかしくて、当たる方が自然だ、ということなのかもしれないけど、仮説(法則)は修正されることもある。慣性の法則って言ったって、そんなのは偶然の話なのだから、もしかしたら、等速直線運動している物体も、外力なしに止まるかもしれないじゃないか、という疑問は、わざとらしいと感じる。止まっている(等速直線運動している)物体は外力が働かない限り止まり続ける(等速直線運動し続ける)ことは、それ以外考えられないくらい根底的なものに思えます。でも、そうでないことはありうる、とも思える。それ以外考えられないけど偶然的、というものが法則の一部として重要になっているのではないか? 物が落ちるときの速さは物の重さに比例する、ということが主張されたときもあったけど今は間違っていると思えるように、静止している物体は外力が働かない限り静止し続ける、ということが、今はそれ以外ありえない法則と考えるしかない(そうでないと他のいろいろな自然観や常識や法則がすべて成り立たなくなってしまいそう)けど、そうでなくなることがあるのだろうか。それとも単に慣性の法則は「正しい」のだろうか。