法則の規則性

ジャンプしない、ということが大切なのではないか? ジャンプ、というか、突然不規則にならない、ということが大事なのではないか? 不規則なものはあり、それにはそれなりの対応がある。規則的なものが突然不規則になる、あるいは、不規則なものでもそれまでと異なった不規則性を見せる、ということはない、ことが大切なのではないか。大切、ではなく、そうでないと成り立たないのではないか。しかし、物事は、突然不規則になるはず、突然不規則になりうる。どうなるかわからないからと考えるしかない(?)。物事のそういった予測できない突然の不規則性の中に、規則を見出す、抽象力によって理想状態としてのシンプルなモデル(仮説)を作る、それを上手く表現するシンプルな数式を作る、ということなのだから、法則(数式)を見て、この仮説で未知の事例を予測できるのが不思議、何故上手くいくのかわからない、と考えるのは、最初に法則(数式)がある状態を考えている、勝手に作った仮説が先にあると考えている、からではないか? まず事実があってそれを予測可能なように(シンプルなモデルとして)表現したいと考える、のだから、そこに突然不規則が入っても、それはモデルに組み込まれるか、そういうものがあるのをわかって無視する(理想モデルを作る)か、つまり、数式ができる段階で、突然の不規則性には対応済みということか? あるいは、ほとんど既知のものに対してしか予測は適用できないということか? 速度と位置の予測は決まりごとの中の話でしかなかったように、投げた石がどこに落ちるか、という予測は、何度も何度も観測されたものを改めてモデル化したものを使用しているのであって、未知の予測ではなく、パズル解きのようなものか? だとしたら、直感でいける、何も予測していない、ということになる。でもそんなことは無い、ような気がする。予測してる。法則が修正されるとき、法則に合致しない事実が観測された、ということは、どういうことなのか? 法則が頼りにしていた事実、事実のモデル化、あたりに既に法則が入っていることになるのではないか。
自然事実の整合性というより、仮設数式モデルの整合性がまずあって、そこから外れるほうが、おかしい、疑問を呼び起こす、ということか? さっきこの石を押すと突然回転しだした、とすると、これは不思議なことで、さっきこの石を押すと押した方向に動いた、これは不思議でもなんでもない。このことは、そういう経験的な事実がある、ということ、つまり偶然なのか? いやだからそれでは話が逆なのであって、いろいろな石の動きを見てきた、石はこういうふうに動く、という経験があって、それを元に、mv=m'v'なり、F=maなりができた、ということか? だからその数式に合わない事実があれば、それはまたそのときの話で、ということだろうか。